ことばひとひら ~つーさんの妄想日和~

流されながら、向き合いながら、感じたモノを一片のコトバに

傷つけても、嫌われてもいい。依存先を守るためなら

モヤっとしたり、イラっとしたり。

それは都合よすぎだよ、それは善意の押しつけだよ。

そうやって、どこか違和感を覚えてなんだか悲しくなったり。

 

でも、ひとつひとつはとても小さくて、気が付けなかったり、自分が一口こらえて飲み込めばいいかな、なんて思ってたりなんてことも、よくあるお話。

 

最初は、だけど相手も都合があってやっていることだからと思う。良かれと思ってやってくれているのだから、求められている反応を返せば喜ぶだろうと思う。けれど、そうしているうちに、感情は緩やかに死んでいく。自身の中の矛盾が苦しいから、モヤっとしたその違和感を見なかったことにする。自分はどうか、ではなく求められたものを返すようになっていく。これも、よくあるお話。

 

そこで存在を無視された感情や違和感は、どこへ消えてしまったのだろう。

 

たとえ無視していても、あるものはある。消えたのではなく、奥深くの蓋を必死に押さえている箱に、少しずつ少しずつ溜まっていく。自分も知らないうちに、澱のように少しずつ。

 

そのうち、蓋が押し上げられそうになって、少し相手とかみ合わなくなってきたリ、自分の体調に変化が訪れることもある。でも、その頃にはすでに疲れ切って麻痺していて、それすら見過ごしてしまうことも少なくない。

 

そして、爆発は突然に訪れる。それまで一心に押さえていた蓋が、耐えきれなくなり一気に跳ねる。これまで中に溜まってきた無視されたモノたちが、一気に溢れ出す。混じりすぎて、込み上げすぎて、何が原因かもわからずに、これまでさざ波を立てないようにしてきた関係性の渦に、一気に流れでる。

 

私の側が溜めてきたのか、相手の側が溜めてきたのか。それは、分からない。けれど、こうして壊れてしまった関係性も、これまで何度かある。その多くは、私にとって大切な“依存先”だった。

 

依存先だからこそ、大切だからこそ、壊したくないと願う。よく思われたいと望む。だから、我慢してしまうのだ。自分が少し我慢すれば、少し背負えば、少しなかったことにすれば、それで全てが丸く納まるならそれがいいと、勘違いしてしまうのだ。

 

その場の雰囲気はいいかもしれない。けれど、そうした私の向き合い方は、緩やかに静かに、しかし確実に依存先との関係性を侵していた。大抵の場合は、おそらく私の側だけでなく、相手の側からも同様に、関係性の緩やかな破壊が進んでいた。

 

何度、同じ失敗を繰り返してきただろう。

 

過去形ではない。今いるワークルでも同じことを繰り返している自分がいた。それに気が付いたのは、4月も後半に入ってからだ。

 

仕事や他のことも重なり疲れていた私には、いつもはやり過ごす小さな「モヤ」が耐えられなかった。生活の中で唯一の憩いで救いと言っても過言ではなくなったワークルで、そこでも堪えれば、それこそ家から外に出られなくなると感じた。同じ出られなくなるなら、打破の可能性がある方に賭けてみよう。「何を言い出すんだ、そんなこと今まで言ってこなかったのに」と思われることを覚悟し、なけなしの勇気を振り絞ってチャットで伝えてみた。怒るかな。どうしてって聞かれるかな。心臓の奥底で、ギュッと何かにつかまれたような動悸を抑えながら、一瞬呼吸を止めた。

 

ぽんっと返されたチャット。そこには「おっけい!」の文字。

 

拍子抜けだ。

 

さらに詳細にチャットが続き、返された言葉が「つーちゃんがこの声をあげてくれたのは感謝してる。」

 

本当に、本当に拍子抜けもいいところだ。私は今まで何を飲み込んで、何を我慢してきていたのだろう?相手を思っていたのではなく、ありたい自分・見られたい自分を無理に演じていたのかもしれない。

 

ホッとした。私の依存先は、なんてたくましくて、なんて美しい。

 

高校の茶華道部、生徒会、立教大学のアイセック、ベトナムの教え子たち、アイセック・ジャパンの仲間、ワークル。私の依存先は、どれも少しずつ弱くて脆くて不完全だ。どれも少しずつ私と異なり、まるっきり依存しきることはできない。

 

けれど、どこも同じようなしなやかさがある。柔らかくて、優しい。

 

 

傷つけたくないと思ってきた。だから、自分が我慢すればいい、そう思って生きてきた。

 

だけどそれは、相手は傷つかなくても、自分を傷つけているということだった。それを後から知れば、相手だってもっと深く傷つくかもしれない。

 

嫌われたくないと思ってきた。だから、相手が望む解を見せようとしてきた。

 

だけどそれは、偽りの自分を好いてもらっているだけで、いつまでたっても自分自身を愛してもらえないことにつながっていた。

 

傷つけてもいい、嫌われてもいい。それが、最後の爆発を阻止して、私の大切な依存先を守ることにつながるならば。

 

負の感情も全部含めて、そっと間に置いてみよう。託してみよう。

 

それができたら、本当の意味で正しく依存し合える依存先になるような気がする。

"廣瀬翼"を休業します

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「生活がゲシュタルト崩壊している」

そうツイートしたのはいつだったろうか、早1週間になる気がする。

 

いつから夢か、どこから現実か。昨日どうやって帰ったか、いつ布団に入ったか。今、自分は「今日」にいるのか、「昨日」にいるのか。仕事中なのか、そもそも仕事とは何なのか。

 

体は動く。なんとか仕事に行く。パソコンの前に座って起動する。そこで何をするのかわからなくなる。なぜそこに座っているのか、わからなくなる。

 

画面と焦点が合わない。色々な情報が脳をかき回していく。ふと気が付くと手は一切動いておらず、刻々と時間だけが通り過ぎている。

 

胃痛と胃の重みから併発した腰痛、肩こり、背中の痛み。聞こえない右耳。

重い体を引きずりながら、明日には起き上がれずについに潰れてしまうのではという恐怖を抱く毎日。なのに、どこかで「まだ行ける、まだまだやれる、もっと遠くまで行きたい」と必死になり駆けようとする自分。

 

満員電車で立っていられなくなったのを機に、仕事は少し「さぼる」ようになった。やらないといけない作業が残っていても、ある程度で切り上げた。だけどその空いた時間に何をしていたかは、あまり記憶にない。

 

私の世界は、少しずつ「統合性」を欠いていった。「一貫性」も失っていった。

人と一緒のとき、仕事の話をするとき、一時的な集中はできた。だから、周囲にはそういう状態だということが全くと言っていいほど伝わっていない。でも、集中すればするほどその後の反動が大きく、世界の姿も存在も崩れていった。

 

それはまるで、場面展開が急で一貫性のない脚本の舞台に、内容も理解せずにずっと立たされているような日々だった。

 

どこで違えてしまったのか、あるいはずっと昔から少しずつ浸食していたのか。どうしてここまで追い詰められたのかも分からない。

 

ただ、「このままだとヤバい」、それだけはどこかで感じていた。

 

だから、この土日は思い切って逃げてみることにした。

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「逃げる」といっても、大それたことをしたわけではない。

 

土曜は、毎月恒例で通常の私であれば必ず参加するイベントを不参加にした。仕事とは別に関わっているプロジェクトの関係者が東京に出てきた集まりも、不参加にした(調整がうまくいかなかったという理由もあるけれど)。

 

どちらも、誰に参加が義務付けられているものでもないけれど、通常の私ならどう調整してでも絶対に参加する。しなければ、"廣瀬翼"ではない。私にとっては、声をかけられたものへの参加は、ほとんど「義務」だった。だから「行けないです・行かないです」と言うのは、とても勇気のいることだった。

 

それでも、今その場に行ってしまえば、そこは刺激と情報が多すぎて、「私」がオーバーヒートしてしまう。いつもは大好きなその刺激が、今の私には、一時的に楽しくなるものの、ささくれた神経の炎症を増し、不安定性を高めるものであるように感じた。

 

コンテンツのいい悪いではない。受け取り手のコンディションの問題だ。

「そっと背中を押してあげる」も、使い方を間違えたらいけない。石橋の前でもたついている人の背中は押してあげたらいい。けれど、電車のプラットフォームの縁で佇んでいる人の背中は、押してはいけない。それだけの話だ。

 

ひたすら街をぶらぶらした。本屋をぶらぶらした。文字を読む気は起きなかったけれど、それでも本に囲まれる本屋は落ち着いた。脚が筋肉痛になるくらい、歩き回った。

 

夜には、友人と会いただひたすらに話した。最近あったことや、互いの悩み。沈黙すらも心地いい。何を言葉にしてもいい、何を言葉にしなくてもいい。人には話しにくい私の背景も知っているその友人との一対一の場は、走りすぎた私の精神を体に引き戻してくれる時間になった。

助けを求めると調整してくれる。見捨てることもなく、まずは全部を受け止めてくれる。そんな友人には、これまで幾度となく助けられてきた。本当に感謝している。

 

私の世界に、少しだけ彩と統合性が戻ってきた。

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日曜も、本当は行くつもりだったイベントに行かず、ずっと家で寝ていた。目を閉じるたびに様々な夢を見た。夢から醒めるたびに、少しだけ頭と気持ちがスッキリしているのを感じた。こうしてブログに記せるくらいに、落ち着きを取り戻した。

 

そして気が付いた。世界の統合性が失われていたこの1か月、私は自分で抱えきれないほどの刺激や感情の波を背負っていたのだと。それらを処理しきる前に明日が来てしまう。だから、眠った気もせず、気が付いたら朝がやってきていたのだと。

たまたま変化が重なったこともある。そこに感情が全くついていかず、自分でも感情をうまく処理できていなかったのだと思う。

自身で手広く活動を広げすぎたことも、変わりたい一心に必死にインプット量を増やしすぎたことも、情報過多になってしまった原因かもしれない。

 

だから、自分の歩調がつかめるようになるまで、"廣瀬翼"を休業しようと決めた。

 

休業するといっても、やっぱり特別なことはない。

休日、一日に3つ以上の予定を詰め込まないこと。焦ってインプット量を増やさないこと。出来ていないことがあっても、まずはちゃんと寝ること。

一つずつ、ゆっくりでいい。丁寧に生きていきたい。

 

周囲の人との関わり方はさして変わらないし、むしろ気にしないで欲しい。「参加するのは義務」そう決めつけていた自分への余白と許しのような意味合いが強いのだ。

 

ただ、少し反応が悪くなることがあるかもしれない。いつもなら二つ返事で「行く!」「やる!」と言うことへのノリ方が悪いかもしれない。絶対的な締め切りがないものは少し遅れるかもしれない。そういう時、「休息して自身と戦っているんだな」と少しだけ待ってもらえると、嬉しい。

もちろん、極力そういうことがないようにするし、そういうことにならないように詰め込み具合を調整する術も身に付けようと思う。

 

ここからは「深呼吸」することを忘れずに歩んでいくようにしよう。

 

私にとっての「働く」を、理解・分解・再構成してみた

「あなたにとって『働く』とは」

自身で設けた命題であるのに、いざ書こうとすると筆が止まってしまいました。

 

あれ、今の私は「働いて」いるのかなあ……?

 

確かに、営利企業に所属し、「シゴト」を「熟す」ことでお給料をいただいています。自分の時間や労力を対価として差し出し、生活費を稼いでいることは間違えありません。

 

でも、「稼いで」いれば、それはそのまま「働いている」ことになるのでしょうか。反対に、自身で稼いでいない専業主婦は「働いていない」ことになるのでしょうか。有志プロジェクトのボランティアはどうでしょうか。

 

考えれば考えるほど、今「働いている」実感がないように思えてきました。平日の稼ぎに出ている時間よりも、こうして誰に見せるでもないコラムを書いている時間や無償の記事を書いている時間、あるいは大学時代のアイセック活動の方が、「働いている」気がするのです。どうも私の中に「働く」に対して一定の定義があるようです。

 

そこで、今回は「働く」という言葉を私自身がどうとらえているのか、その意味を深掘ってみることにしました。

 

「働く」の漢字を分解してみた

まず「働く」という漢字を分解して意味を噛み砕いてみることにしました。

 

真っ先に見つかるのが、「人」と「動」の2字です。

 

けれどまたここからが難しい。

 

「人『が』動『く』」のか。

「人『が』動『かす』」のか。

「人『と』動『く』」のか。

「人『を』動『かす』」のか。

「人『のために』動『く』」のか。

 

助詞と動詞の活用で複数の意味が見出せます。どれもありそうで、どれも少しずつ違う気がする。ひとまず、何かが動くまたは動かすというように、モノやヒトとの何かしらの関係性があって生まれるのが「働く」のようです。

 

ところで、もう一段階この漢字を砕くことができるなと気が付きました。「動」を「重」と「力」の2字に分けることができるのです。

 

何かを動かすには、あるいは何かが動くには、「重い力」が必要なようです。

 

人が何かとの関係性の中で重い力を使って何かを動かす。なんとなく、「渦」の中心となり「渦」を巻き起こすイメージが浮かび上がりました。プールで大きな渦を生もうとすると、流れができるまでの最初の一二歩がすごく重い。「働く」は決して楽ではなく辛さもしんどさも負荷もかかることがあるということが、この漢字分解でストンと腑に落ちました。



「働く」の意味を調べてみた

今度は辞書で「働く」の意味を調べてみることにしました。本当はこういう時に「広辞苑」で引いてみた、と言えるとかっこいいのですが、広辞苑は持ち合わせていません。そこで、web上の大辞林で調べてみました。

 

はたらく【働く】

( 動五[四] )
①肉体・知能などを使って仕事をする。一生懸命にする。 「 - ・いたあとは飯がうまい」 「このプロジェクトの中心になって-・く」
②職業・業務として特定の仕事をもつ。 「 - ・きながら大学を卒業した」
③機能を発揮する。効果・作用が十分現れる。 「もう疲れて頭が-・かなくなってしまった」 「勘が-・く」 「なかなか悪知恵の-・くやつだ」 「遠心力が-・く」
④そのものとしての力が生かされる。役に立つ。 「このねじは-・いていない」 「制御装置が-・く」
⑤悪いことをする。 「乱暴を-・く」 「盗みを-・く」 「不正を-・く」
⑥語尾が変化する。活用する。
⑦動く。体を動かす。 「鯉・鯛は生きて-・くやうにて同じ作り枝につけたり/宇津保 蔵開下
⑧出撃する。出撃して戦う。 「丸子の城へ-・かんとて/三河物語」
[可能] はたらける

 

何の文脈もなく「働く」というときは「②」の意味合いが多いと感じますが、「①」を見ると、やはり必ずしもお金を生み出す必要はないようです。

 

③以降を見ると、「労働」とは違う文脈で「働く」が使われています。「人」という漢字が入っているにも関わらず、ヒトと関わりがない文脈でも使われる。なんだか、そこに語源があるように感じました。

 

また、さらに目に留まったのが④。「そのものとしての力が生かされてる」ことが「働く」なのだとしたら、労働に置き換えたときも、その人の能力が発揮される場でないと「働く」にならないということでしょうか。どこまでを「そのものとしての力が生かされている」とするかは難しいですが、確かに急に私がスポーツ選手になったところで、全く「働けない」だろうなという気はしました。



「働く」の語源を調べてみた

辞書で意味を調べて気になった語源も調べてみることにしました。

 

いくつかのサイトを転々とするうちに気が付いたことがあります。なんと、「働」は漢字ではないのです。では何なのかというと、「国字」、つまり日本国内で作られた漢字なのだそう。

 

もとは止まっていたものが急に動く事を表す言葉として生まれたと言われているようです。「はためく」「はたと動き出す」の「はた」と同じですね。それを労働の意味合いで使うようになったのは鎌倉時代らしく、その時に「人」の要素が足され「働」という字が生まれたそう。

 

もう一つの説は「はた(傍)を楽にする」が語源というもの。とても素敵で納得感はあるのですが、先ほど辞書で調べた意味合いを考えると、こちらは言葉遊びで語源は前者であるように感じます。

 

何かが動き出さないと、働いたことにはならないようです。



「働く」を私なりに統合してみた

ここまで言葉の本来の意味を探り、理解・分解してきた「働く」。だいぶ解像度が上がってきました。そこで、ここで一気に引いて、私なりに集めたピースから納得できるものを統合してみます。

 

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廣瀬翼にとって「働く」とは

「①誰か・何かのために、②自ら③自身の力を使って、④何か・誰かをほんの少しでもいいので動かすこと。+その過程で、人と協力することも重要」

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自動詞であることと、漢字の分解で得た感触から、主体性を表す「自ら」という言葉を足しました。

 

書き出してみると、確かに①~④の要素が全て納得できるときは「働いた!」という実感があるような気がします。

 

例えば、ミライエ(よくお世話になっている鎌倉の古民家)の大掃除。今まで2度参加していますが、乾拭きした畳がつやつやに輝いているのを見たときや、障子を張り替え終わったときは「働いた!」と感じました。

「①ミライエといつも使わせてもらっている私自身や他利用者のために、②自ら③自身の時間と体力を使って、④ミライエをほんの少しでも綺麗にする。+みんなで分担してやることで達成」

 

文章を書いているときについても当てはめてみました。

「①自身と同じような悩みや違和感を抱えている、いつかこの文章を読んでくれるかもしれない誰かのため、②自ら③時間と言葉を使って、④メッセージを少しでも届けて、少しでも気付きや異なる視点を与える+書く過程で他の人と話してみたり、他の人の考えを知ったりすることが全体の完成度・解像度・説得性を上げることにつながる」



こうしてみると、私にとっての「働く」は、必ずしも就労である必要はないようです。傘を持っていない人にそっと傘を差しだすことだって「働く」になる。困っていそうな人にそっと声をかけて話をひたすら聞くことも「働く」になる。私の「働く」は、仰々しく肩書を担いで経済活動として行わなくても、日常のなかにふわりふわりと転がっています。

 

「ことば」は書き手のみでなく、読み手の鏡でもある

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大学生や院生が、卒業を目前に「最後の学生生活」として旅行を楽しんでいる様子を見かけるようになりました。2月もあっという間に去り、卒業シーズンの足音が聞こえてきます。

この時期になると、様々なところで多くの人が「卒業生に贈る言葉」を発表しているのを見かけるようになりだします。卒業式では学長や校長に祝福の言葉をいただき、式の後に友人と写真を撮り別れを惜しむ学生が多いのではないでしょうか。

でも、私が高校を卒業した年は少し状況が異なりました。中には卒業式が中止となった友人もいました。

2011年3月11日。多くの学校の卒業式を目前に、東日本大震災が発生したためです。

津波や倒壊の被害は少なかった関東でも、計画停電が行われました。混乱と不安が続いていました。各所で、安全性の不安と、式典を行い「おめでとう」ということの自粛から、卒業式や入学式が中止となりました。

 

私自身その影響を受けた人間の一人です。当時は大阪に住んでおり、いよいよ4月から上京して立教大学へ入学するというタイミングでの出来事でした。最初は大学が倒壊してなくなってしまってはいないか、形は残っていても混乱の中で今年は授業を開講しなということはないかと、不安に陥りました。そして春学期の開始が1カ月遅れ、入学式は中止とする知らせが届き、大学生になれる安堵と同時に、スタートから遅れる大学生活がまた不安になりました。

 

「卒業式を中止した立教新座高校3年生諸君へ。(校長メッセージ)」(http://niiza.rikkyo.ac.jp/news/2011/03/8549/)をインターネットで見かけたのは、そんな折でした。

 

1.鏡|大学1年の私とメッセージ

大学で学ぶとは、又、大学の場にあって、諸君がその時を得るということはいかなることか。

メッセージは、これから大学に行こうという期待感と不安感を抱いた私たちへの根本的な問いかけから始まります。学ぶため、友人を作るためといった、多くの人が回答しそうなものを先回りして挙げ、「それは一生必要だ」「大学以外でもできる」と否定していきます。

 

当時、同様の問題提起をもって、「大学不要説」を一部のベンチャー系の人たちが出してはいましたが、まだその声はさほど大きくなかった印象でした。受験生にとってはタブーのような話で、どこかで感じていても声を大にして議論することもありませんでした。

その中で、大学付属の高校の校長先生がこのような問いかけをするのはとても新鮮でした。そして、ただ「大学不要説」を唱えるのではなく、今後の大学生活を大きく左右することにもつながる新たな視点を提示してくれる気がしました。

 

校長は、一通り思いつく限りの高校生が挙げそうな理由を否定したところで、初めて自身の考える大学へ行く意味をこのようにつづります。

大学に行くとは、『海を見る自由』を得るためなのではないか。

言葉を変えるならば、『立ち止まる自由』を得るためではないかと思う。現実を直視する自由だと言い換えてもいい。

 そこから、一気に語り口が変化していきます。それまで淡々と、冷静に、視野広く語ってきた言葉が、熱をもって押し寄せてくる文章へと一変。大学という期間がいかに特殊で貴重か、「自由」と「時間」を観点に置いて強く語ります。この津波被害が大きかった時に、誤解を恐れずにあえて大海を例えに挙げて「海を見よ」「孤独と向き合え」と語りかけてきます。

 

なんだか思っていた以上に壮大な話になり、壮大な世界なのだと感じました。

視野を広げなければならず、それは外に刺激を求めるだけではないのだということ。けれど、深く見つめられる時間はそう簡単には取れず、大学の4年間は非常に重要らしいということ。「モラトリアム」という言葉があるけれど、大学はまさにそれで、しかしその「モラトリアム」が想像している以上に重要であること。なんとなくですが、そう感じ取りました。

そして、「学校」にこんなに熱く深い先生がいることを嬉しく思い、それが自身の進学する大学の付属の高校だということをどこかで誇らしく思いました。

 

端的に言うと、この文章で大学へのモチベーションが上がりました。いろいろ経験して自身の血肉としていくぞ。立教大学はこのメッセージを出す校長を置く学校法人グループなのだから、そのステージにふさわしいところだぞ。そう考えた記憶があります。

 

2.鏡|卒業後の私とメッセージ

休学を含めた5年間の大学生活を終え、卒業からもうすぐ1年が経とうとしている2017年2月。私は、たまたまシェアされていたこのメッセージと、再び出会いました。

特に何か思ったわけではなく、ただ「大学生活を終え社会で働くことも経験しだした今だと少しは見え方が変わるのではないかな」と思い記事をクリックしました。

 

時を経てそこに広がっていた海は、6年前の霧のかかった海ではなく、壮大に広がり白波の押し寄せてくる大海でした。その大きな変化に、自身で驚きました。

なんと厳しく、荘厳で、そして強い愛情に満ちた贈り物を、この校長先生は届けようとしたのだろうと、震えました。きっと彼自身、まだ生徒たちには10分の1も伝わらないであろうことを自覚しながら、それでもなお伝えようとしたのだろうも思いました。

 

いかなる困難に出会おうとも、自己を直視すること以外に道はない。

いかに悲しみの涙の淵に沈もうとも、それを直視することの他に我々にすべはない。

今回読んで一番胸を打った文です。

けれど、6年前には1番わからなかった文でもあります。友人を頼れ、顔を上げたら手を差し伸べてくれる人がいるはずだと語られることが多い中で、なぜこの校長は「自分」を見ろと、救いは他にないと、とても冷たく虚しいことを卒業生へメッセージとして送るのか、不思議でした。

それが、今はスッと入ってきます。

 

確かに、頼るべき友人がいることも、声を上げる必要性も、泣くことも学んできました。でも、最後の課題は自分の中にあり、自分を見つめなければ、いつまでも何も変わりませんでした。

振り返ると、前に進めたときは、周囲の手を借りながら自分を見つめられた時でした。そうして見つめる自分は、悲しいほどちっぽけで、恐ろしいほど虚栄心を張っていて、不安定で、時に孤独でした。それは大概、見つめたくなく、認めたくない自分でした。しかし、それを見つめて抱きかかえないと、手を差し伸べてくれた人がその手を引っ込めてしまうこともありました。

 

まさか6年前に全く理解できなかった箇所が、1番グッとくるとは思ってもいませんでした。

 

3.鏡に2度映して見える変化

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私は決して人に胸を張れるような大学生活をしてきませんでした。失敗したことの方が多いし、踏み外してはいけないものを踏み外したこともあります。大学生活を終えたあとも、こうして「書く」ことを再開するまでは、ずっとどこか閉じこもり悶々と悩んでいました。めそめそと一人で泣くことも、他人にあたることも、そうして失ったものも沢山あります。

けれど、その経験を経たからこそ、今、6年前の文章を深く受け止めることができるように自身が変化したのだとしたら、少なくともこの校長が言うような大学生活と時間を送ることができたのではないかと思えます。大丈夫、私は不器用で足りないかもしれないけれども、それでもちゃんと学んで進んできている。そう思えることで、再びこの文章に安心と勇気をもらいました。

 

また何か次の区切りには、同じ立教新座高校の校長先生のメッセージを読み返したいと思います。

 

同じ文章を、同じ人間が読んだとしても、読み手に変化があればその文章が持つ意味合いも変化します。「ことば」は、書き手の鏡であるとよく言われますが、同時に「読み手」の鏡でもあるのです。

そして、同じ文章への感じ方の変化を知ることは、自身の変化を知ることにもつながります。

みなさんも、何か自分の「鏡」とする文章や作品を一つ持って、時間をおいて振り返ってみると、新たなものが見えてくるかもしれません。



教え子との再会――海外インターンシップの半年で確かに得たもの

時計の音が今日はやけに大きく感じる。
20時30分。それが今日のタイムリミット。刻一刻と時間が迫っていた。

急がねば。急がねば。

焦れば焦るほど、時間が経つのが早くなり、しかしそれと比例するかのように手はまごつく。よし、これでいい。そう思って最後にメール送信ボタンを押そうとするのだが、その度に編集忘れのページが発見される。出口が見えなかった。一生終わらないのではないかと思うほどの絶望感に襲われていた。

今日中に終わらせなければならない。今日中に資料を送信しなくては、後々のタイムラインがどんどん遅れ、自身の首を絞めるだけでなくプロジェクト自体が回らなくなる可能性だってある。これだけは終わらさなければ会社を出ることはできない。

けれど、今日はどうしても20時30分に会社を出たかった。今日だけは、譲れない理由があった。

 

何とか送信ボタンをクリックし会社を出たときには、すでに20時45分直前だった。伝えていたより15分遅くなりそうだ。走りながらFacebook Messengerを開き、ほとんど手元も見ずにフリックする。

「今、会社出ました!新宿に21時15分ごろ着きます。少し遅くなって、ごめんなさい」

即座に既読がつき、少し間をおいて返信がきた。

「先生、今スカイツリーの押上にいます。先生のところまで、行きますよ」

あれ、と拍子抜けした。そういえば、21時と約束はしていたものの、会う場所を決めていなかった。押上からであれば新橋まで来てもらう方がありがたい。

「ありがとう。新橋です。浅草線で一本ですよ。改札で待っています」

私は少し胸をなでおろし、呼吸を整えてから改札に向かった。

 

「先生、お久しぶりです」

聞き覚えのある、歌うような柔らかい声に呼ばれて読んでいた本から顔を上げる。大きな眼鏡をかけ、二重のくっきりした教え子が前に立っていた。

「お久しぶりです!もうご飯は食べましたか?」

相変わらず彼の声と雰囲気は、辻井伸行のピアノのような柔い優しさと包容力、それでいて芯の強い打たれ強さを連想させるなあ……。恩田陸の『蜜蜂と遠雷』を読んでから、ピアノ曲ばかり聞いていた私はふとそんなことを考えながら答えた。

「もう食べました。でも、先生まだですよね、もう一回食べてもいいですよ」

「今何歳でしたっけ?」

「もう20歳になりましたよ」

「じゃあ、お酒は飲みますか?」

「飲めますが、明日インターンシップですから……」

「そうだね、飲まない方がいいね。カフェに行きましょう」

 

岡山の大学に通っている彼は、今年大学3年生にあたる。秋入学なので、就職活動はまだ先なのだそうだ。今回は明日の午後に控える1dayインターンに参加するついでに2日前から東京入りし、観光していたという。

「スカイツリーはどうでした?」

「すごいですねー。とても楽しかったです!」

「昨日はどこへ行きましたか?」

「お台場へ行きました。中国語がたくさん聞こえて、驚きました」

「ああ、特に平日の観光地はそうですね。電車でも、中国語を聞くことが増えました。最近は時々ベトナム語も聞こえますよ」

 

もはや敬語を使う必要もなく、容易な言葉で文法を押さえて話す必要もない。早口過ぎず、相手のリズムを待ってさえあげれば、いつもと同じような話し言葉で通じることぐらい2人ともわかってはいた。けれど、どこかで2人の間では丁寧な日本語でのやり取りが習慣づいており、またこの会話感が懐かしくもあった。

そういえば、先生と呼ばれるのはいつぶりだろうか。振り返ってみると一昨年の夏に平和記念日の広島へ行ったときに、同じく岡山の大学へ通う別の教え子とバッタリ出会ったとき以来だった。

 

「どれぐらいぶりでしたっけ?」

「一昨年の2月頃、東京に遊びに来た時ぶりかなあ……」

「そっか、ちょうど2年ぶりなんだ。あの時は夜ごはん焼肉に行ったね」

驚くほどあっという間だ。光陰矢の如しとは言うけれど、それすら通り越して浦島太郎の気分である。そういえば、彼も心なしか今までの幼い雰囲気よりもおっとりして落ち着いた雰囲気が強くなったように感じられた。

「じゃあ、アトランティックで授業をしていたのは3年も前ですね」

「早いですね」

彼も少し考え込んでから、懐かしむように答えた。その響きはとても優しく、もう一度この子たちの授業をベトナムで持ちたいと思わせるに十分すぎた。

 

 

3年前、私は大学4年を休学し6月からの半年間をベトナムで過ごした。その大半を北部のハノイで過ごし、合計して1カ月半程度は北部から中部の各地方を転々とした。アイセックの海外インターンシップを使っての渡越だった。インターンシップの内容は日本語教師だった。

アトランティックはその時私が教えていた現地の留学エージェントだ。このエージェントを使って日本へ留学する学生は、留学前の3カ月間無料で日本語の授業を受けられる。私はその授業を取り持つ日本人教員として呼ばれた。

当時現地にいた教員は2人のベトナム人だったが、どちらも来日経験はなく、一人は大学生バイトだった。事業規模拡大に伴い教員の増員を視野に入れつつ、ネイティブの教員の授業を売りにして優秀な留学希望者を取り込みたいと考えていた会社にとって、アイセックのインターン生はいいトライアルだった。英語が話せ、日本語はネイティブであり、国際文化交流への抵抗が少ない。彼らにとって唯一といっていいインターン生のマイナス点は、必ず契約期間後帰国し、十中八九ここで働く以外のキャリアを歩むということのみだった。

留学前の学生たちは月曜から土曜の週6日間、毎日3時間近い授業を受けた。私は日に3つのクラスを持った。一度でも授業を持ったことある学生の数は100を超え、そのほとんどが今は日本で学んでいる。

 

彼はそのとき教えていた学生の一人だ。日本語学校ではなく留学生を受け入れている大学に直接入学できるアトランティックでも花形クラスの学生で、そのクラスの中でも最も熱心で成長の速い学生だった。どちらかというと照れ屋なのだが、反面、率先してみんなの前で発表したり、休み時間ごとに人懐っこい目をして質問や談笑をしに教員の元へやってくる、そんな子だった。最初は文字通り「あいうえお」からのスタートだったが、3カ月後日本に発つときには難しい単語だけ英語を使えば基本は日本語で意思疎通が取れるほどに上達していった。

 

最後の授業のときも、前回会ったときも、先生と呼ばなくていいと伝えたにも関わらず、彼は変わらずに私を「先生」と呼んできた。以前はその環境に戸惑ったが、今は「先生」と呼ばれるごとにハノイで過ごした日々に引き戻され、懐かしくも居心地がよかった。私の名前が日本語初心者にとって呼びにくいので、「先生」がニックネームのような面もある。

 

日本で2年間生活しながら勉強してきただけのことはある。彼は、かなり深い話も日本語でできるようになっていた。同程度の次元の話を、私は英語ではできない。自分の教え子だからこそ、彼らと話したり彼らのFacebook投稿を読んだりすると嬉しくなる一方で、自分の能力の低さが嫌になることもある。

 

頼んだコーヒーが来てから急に気が付く。

「そういえば、みんなにとっては日本のコーヒーは薄いですよね」

「そうですねぇ、ベトナムコーヒーとは違いますね」

ベトナムはコーヒー大国だ。街にはカフェが沢山ある。私自身、毎日のようにカフェに通ってベトナムコーヒーを飲んでいた。日本のドリップ式やサイフォン式とは異なる独特の入れ方をするベトナムコーヒーは、味が濃い。ミルク入りを頼むとコンデンスミルクが入るのだから、それだけでも味の濃さがうかがえる。

そんなことすら抜けていた自分に愕然とする。あんなに大好きで、しょっちゅう帰りたいと言っていたベトナムなのに、いつの間にこんなに遠い存在になったのだろう。

「でも、日本のコーヒーも好きですよ」

飾りのない彼の一言にほっとする。

「ベトナムのコーヒーは味で、日本のコーヒーは香りですよね」

「あ、それ、最近わかります」

 

色々話した。彼の勉強のこと。この2年間で観光した街。ベトナムへ最後に戻ったのはいつか。日本で働くのか、ベトナムで働くのか。一緒に留学した同じクラスの子たちは元気か。

 

「先生、そういえば僕部活に入りました」

まるで「これが伝えたかったんだ」とでも言うようにワントーン上がった声で報告してきた。

「何の部ですか?」

「マーチングです」

「楽しいですか?」

「でも、1カ月で辞めました」

「あらま、大変だった?」

「先輩が好きじゃない」

 

これはちょっと意外だった。柔和な彼は、合う合わないはあっても、人を嫌うことはなさそうに思えたからだ。大きな衝突は生まれそうにない。

「意外です。あまり、人の好き嫌いがあるイメージがありませんでした」

今度は彼が目を見開いて私をのぞき込んだ。

「でも先生、嫌いだったら、いつまでもするんじゃなくて、ちゃんと早く伝えたほうがお互いのためにいいでしょう?」

それが当然のことなのに、という思いと、それを認めてほしいという不安が入り混じっていた。

「それは、確かにそうですね。その通りです。だから、ちゃんと話せたのはすごいです。でもね、なんというか、私にはあなたが人を嫌いになったりすごく喧嘩したりするイメージがなかったんです。もちろん、あんまり仲良くないな、とか、ちょっと苦手だな、はあると思うんですが、『嫌い』と言ったことが意外でした」

それを聞いた彼は少しうつむいて考えてから、さっきまでの勢いとは打って変わって少し寂しそうに口を開いた。

「先生、ほんとはね」

そう話しかけて、一度口を閉じる。まだ、話すべきか悩んでいるようだった。

「先輩とか、後輩とか、難しいですね。でも、そうですね、本当はね、嫌いではないんです。嫌いだから辞めたんではないんです」

ゆっくり話す。今まであまり言葉にしてこなかったのか、あるいは自分に最初に日本語を教えていた私に伝えるべきか悩んでいるのか。私も、何も言わずに彼が言葉にできるのを待つ。

「部活に入ったときは、今よりまだまだ日本語ができませんでしたから、難しかったです。みんなの言っていることが、わからない。授業は大丈夫でも、部活は日本人も友達と一緒ですから、話すのが速い。わからないし、僕もうまく話せない。だから、マーチングも全然うまくなりませんでした。僕がみんなに迷惑をかけているなと思って、マーチングは本当はもう少しやりたかったけど、でも部活は辞めました。」

 

どう答えていいかわからなくなった。留学生が多い大学でも、これか。なぜか申し訳ないと思った。そんな思いをさせてしまい、情けなかった。

ところが、すぐになぜか笑いが込み上げてきた。

「あのね、先輩とか後輩とか難しいって、日本人の文化や考え方がわかりにくいっていうけれど、そんなことないですよ。その『自分が迷惑かけているから』という理由でみんなのために辞めてしまうのは、もったいないけれど、すごく日本人の感覚に近いと思います」

うつむき気味だった彼がニヤッと笑って、反応した。

「よく、言われます。中身も、見た目も」

 

その後も話が途切れることはなかった。気が付けばもうすぐ23時だった。

「先生、僕は教育関係に関心があります」

就職について話題にしていたとき、真っすぐな眼差しで彼が告げてきた。教育関係、確かに似合うかもしれない。

 

「先生は、なぜ教師になりませんでしたか」

「えっ……」

言葉につまった。それは、これまでの会話とは明らかに違った。質問よりも詰問のような雰囲気があった。僕を教えてくれた先生なのに、なんで先生になってくれなかったの?と責められているような気がした。

教育関係を志す教え子を前にどう回答したらいいのだろう?なんとも意地が悪いなあ、と苦笑いする自分がいた。

 

日本語教師としてインターンシップに参加するときも、その後教員になるつもりはなかった。リタイア後の日本語教師はありかもしれない。でも、自分は教師一筋ではないな、とやはりインターンを通して感じた。

 

それでも、彼らを教えていたときは全力投球だった。我流だ。指導もトレーニングも受けていない。日本語はなんて難しいのだろうと思った。毎夜毎夜インターネットのヒントになるサイトとにらめっこし、自分が書いた文章を分解した。教科書に書き込むだけでは足りず、膨大な授業準備ノートができた。教材となる手作りプリントを毎晩刷った。自身が英語を勉強したときに取り込んだゲームを日本語に置き換えてみた。一定以上のレベルのクラスには週に一度交換日記を書いてもらい、丁寧に一人一人赤ペンを入れてコメントを返した。

 

だから、「教えていたときも、始めから別に教師になる気はなかった」とは言いたくなかった。少なくともあの瞬間は、経験も免許もなく技術が追いつくかは確証ないけれど、意地を持ってプロであろうとしていた。彼らのキャリアと人生の一部を担う、教師であろうとしていた。

 

 

「日本語教師に、ですか?」

「それもそうですが、日本語教師でなくても、他の教科でも」

「……教えるって、私には難しかったんです……」

 

日本語は難しかった。まだ、初歩の日本語であれば文法構造も簡単で、ゲームなども取り込みやすい。難しいなりに、彼らのことは何とか教えられた。けれど同時に、これ以上の難易度は満足に教えられず受講者に疑問を残すことになると感じた。授業準備をしながら毎回怖かった。

 

「だけど、その緊張感はみんなが初めての学生だったから、ということにも気が付きました」

 

彼らがついに留学の日を迎えベトナムを去った後、私はまた新たなクラスを受け持った。そのクラスは都内にある日本語学校への留学予定のクラスだった。しかし、軽い燃え尽き症候群となった私は、当初のような集中力を保てず、そのことに申し訳なさも感じながら、ある種の虚無感に襲われていた。

 

「みんなはどんどん成長していくんです。多様な言葉、多様な表現の世界へ飛び出して行って、どんどん、どんどん。卒業して日本へ行ったら、さらに成長するんです。だけど、私は取り残されて、また『わたしは○○です』『おなまえは?』に戻るんです。なんだか、一人だけずっとぐるぐる円形の迷路を歩いているみたいに。それが、耐えられないくらいに寂しかったんです」

 

さらに、クラスによって学生の期待値があまりに違い、困惑した。

 

「この言い方は好きではないのですが、クラスによってレベルの差が大きかったんです。みんなのクラスは英語もできて、理解も早くて、やる気もありました。でも、あまりレベルが高くないクラスでは、日本語が嫌いなわけでも私が嫌いなわけでもないのだけど、勉強したくない子たちも多くいました。勉強はしたくないのだけど、自分ができないと突き付けられるのは嫌って、だからカンニングも簡単にしてしまうんです」

「ああ、いますね。とってもルーズでわからないっていうくせに勉強しない人たち」

それまでじっと聞いていた彼が、労うかのように息を漏らした。むしろ、岡山の大学に留学したクラスの子たちのように熱心な学生のほうが実は少ないのかもしれない。彼には勉強嫌いの学生の様子がすぐに想像できたようだった。

 

ベトナムで教えていた環境は留学エージェントだった上、偏差値分けされたクラスだったため、極端に勉強意欲の低い子と勉強意欲の高い子とが混在する率は低かった。しかし、日本の学校で教えるとなるとそうもいかない。それは、日本語学校にしても、一般の学校などの教員にしてもそうだ。そういった学生が混じった環境をハンドリングし、勉強嫌いな子たちもフォローしながら意欲高い子たちを満足させられる自信を失う程度には十分な半年だった。

 

他にも教員にならなかった理由はあげだしたらキリがない。だが同時に、彼に伝えたいのはそういう「言い訳」ではなくなってきた。最初は質問に答えるために考えていただけなのに、言葉にするうちに伝えたいことが生まれてくるから不思議だ。

 

「だけど、私はベトナムで先生でした。その後教師は続けていませんが、あのときアトランティックのインターンに参加したのは間違えじゃなかったと思っています。みんなに会えて、みんなを教えられたことは、宝物です。こうやって、今も会いに来てくれるのがどれほど貴重で尊いことか」

 

ひたすら真剣な表情で聞いていた彼が、少し居住まい正して頭を下げた。

「本当に、ありがとうございました」

 

それは、こちらの言葉だ。私みたいな小娘に教えさせてくれて、その上今でも先生と慕いながら「ありがとう」と言ってくれて、本当にありがとう。けれど、それは言葉にならず、ただにっこり笑うことしかできなかった。

 

 

そういえば、今は「会社に行くのが面倒くさいなあ、もう行きたくないなあ。いつまで私は朝家から出ていけるのか、どのタイミングで崩れて引きこもりになってしまうのか」と思う日々が長い。

けれど、ベトナムで教えていた半年は、仕事に「行きたくない」とは一度も思わなかった。朝もう少し寝たいな、とか、日本に帰りたいなと思うことはあっても、仕事から逃れたいと思うことはなかった。目の前に向き合うべき学生がいたからかもしれない。毎日複数人の学生と会話でき、つながりを感じられていたのかもしれない。あるいは、実は教えるということに思っているより向いているのかもしれない。

 

これは、今後の自分のためにそろそろもう一回振り返った方がいいな。そんなことを考えながら、とりあえず今日は帰ってこの幸福感を抱いて寝ようと、と思った。

 

 帰りの足取りはここ数カ月では想像もつかないくらい軽やかだった。仕事に、人間関係に、忙しなさに締め付けられていた神経が、ひたすら我慢していた心が、急にふっと緩んで春の陽だまりに包まれたように暖かかった。

 

そういえば、別れ際に撮った写真を彼に送らなければ。そう思いだし、LINEを開ける。その写真には、ここ数カ月で見た記憶がないほどの笑顔が写っていた。

 

※本文中の「今日」は「2月7日(火)」です

心惹かれるもの、それは「わからない」ものたち

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好きなもの。美しいと思うもの。興味あるもの。
いろいろ、あります。

星も好き。海も好き。自然科学、大好き。

人も好き。特に人の体験と心が好き。
人が作る文化も、コミュニティも好き。
人が紡ぐ物語も言葉も芸術も好き。

ただ「好き」なのではありません。
すべて「面白くて、興味深くて、心惹かれる」好きなのです。

なぜ、好きなんだろう?
なぜ、心惹かれるんだろう?

少しだけ、考えてみました。

そして、出てきた共通点。
それは「わからない」こと。

 

「理解できない」という意味の「わからない」ではないのです。
それなら、好きとは言えない数学や語学も同じ。

 

そうではなくて、この「わからない」は「不思議」なのです。

自然科学も、人の心も行動も、趣味の写真や言葉も、ある程度までは理論で説明したり整理したりできます。
でも、それだけではどうしてもわからない、人知の及ばない神秘があるように思うのです。
それが、思いもしない奇跡を起こすことだってある。

だから、目が離せなくて、飽きなくて、面白くて、心惹かれるのです。

 

例えば、写真。
素敵な写真を、なぜ多くの人が素敵だと感じるのかを理論で説明することはできるかもしれません。
構図や光の使い方、人間の色彩認知について。

でも、その写真は理論ではなかなか撮れません。
様々な偶然と必然が重なって、その写真が出来上がる。
理論はその出来上がったものを後から解説しているに過ぎません。

もちろん、ある程度理論を理解していたらいい写真が撮れる確率は高くなります。
再現性も高くなるかもしれません。

でも「まったく同じ」はそうそうありません。

それに、時には理論を理解したプロの写真以上に、ただ心赴くままに撮ったお母さんやお父さんの写真が、地元の人の写真が、ぐっと心打つことだってあります。

理論だけではないのです。

 

自然もそう。
「ある前提」の理論で説明できるけれども、なぜその自然が生まれたかという根本は理論では説明できません。
そして、遂げた進化を後から理論で説明することができても、これからの進化を理論だけで納得し提示することは難しいのです。

それに、満天の輝く星空は、深海の静けさは、色とりどりなサンゴ礁の美しさは、海の透明さは、理論では説明しつくせない感動を与える力があります。
その「不思議」「神秘」の前では理論なんて何でもないのです。

 

そして、何より一番が「人」だと感じる今日この頃です。

人は、不思議。人と人の重なりで生まれるものはもっと不思議。
知っても知ってもわからない。

矛盾を沢山抱えていて、本人ですらその矛盾に苦しんでいる。

どんな出会いがどこで起こって、どんな出会いがその人を変えるかわからない。
同じ出来事でも、人によってその解釈が異なり、その後の変化が変わってくる。

そんなことを知っていくことが、そんな人たちと触れ合っていくことが、知らず知らずのうちに自分の変化にもつながっていて、そして自分も「わからない」のです。

そして、そんな人たちが生み出す物語や言葉や文化、コミュニティもまた心惹かれるのです。

 

とはいえ、こんな風に思えるようになったのは大学後半から。
もともと自然の「不思議」は好きでしたが、人の心については特に「不思議」とも思わず「わかるものだ」と思っていました。

その時と今は何が違うのか……はまた別の機会に。

「みんないる」と涙する祖父――お正月に帰って

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お正月は嫌いです。

 

物心ついた頃から、お正月は父方の祖父母と暮らすものでした。 

それが嬉しかった頃もあります。

祖父母が富山から大阪に出てきて、ホテルに泊まる。そこに潜り込んで、ちょっと背伸びしたベッドで寝る。欲しいもの、やりたいこと、普段はなかなか買ってもらえないけれど、お正月は特別。おじいちゃんおばあちゃんが買ってくれる。

 

でも、いつからかそれが煩わしくすら感じるようになりました。

 

“それだけが楽しみ”で生活されている感じ。かけられる期待。「勉強はちゃんとせなあかんよ」。

私は、他人の生き甲斐のために生きているのではない。もっと自由にやりたいことをやりたい。なのに、やろうとすること・やったこと、全てが祖父母の視点で評価される。

 昔はボーリングに一緒に行き、英語やカメラも教えてくれた祖父母も、次第に体の自由が利かなくなっていきました。お正月も、何をするでもなくどこへ行くでもなく、だけど読書やらなんやらをしていたら「せっかくおじいちゃんおばあちゃんが来ているのに」と言われるようになっていきました。

私の休みだって限られているのに、見たいテレビも行きたい場所もやりたいこともあるのに。あの子の家は温泉旅行に、あの子の家は海外旅行に家族で行っているのに。

なぜ私は毎年祖父母の「相手」なのだろう。

そんな思いが少しずつ募っていきました。

 

そのうち、祖父母が大阪に出てくるのも大変になってきました。そして、私たちが富山へ行って年を越すようになりました。魚とお米は美味しいけれど、他は何もない。お正月でお店は閉まっている。そして寒い。毎年家で作っていたおせち料理も、購入のものに変わりました。


より状況が変わったのは私が大学2年生になったとき。

 

大学に入って初めての春休み、私はベトナムで6週間のボランティア系インターンシップに参加していました。不注意でバス上でスリにあったり、ビザの期間が入国時に申請と誤ったもので印を押されていたことに気が付いていなかったりというトラブルも多い経験でしたが、それも合わせて休学含む5年間の大学生活を方向付ける、私にとってスタート地点のような体験でした。

 

ところが、意気揚々と帰国して伝えられたのは、その6週間の間に祖父が入院したということ。転んでしまい顔にケガをしたため出不精になったところ、栄養失調および脱水症状に陥ったそうです。私が知ったときにはすでに入院から1カ月弱が経っていました。

お見舞いに行くと、そこにはいたのは自身で歩くこともままならずベッドに横たわる祖父でした。


安定して退院した後は在宅介護になりました。祖父の家に見慣れぬベッド、ベッドの横に置ける簡易のトイレ、車いす、車いすで移動できるようにするスロープなどが導入されていきました。

良くなるでも悪くなるでもなく、ヘルパーさんに定期的にお世話になり、父が月に1~2度大阪から車で富山に来て外に連れ出す。そんな日々が続きました。

 

そして昨年11月の末ごろ。再び祖父が入院したとの連絡が入りました。だから、社会人一年目の年末年始どうなるかわからないけれども、できるだけ帰ってきて祖父の元に一緒に来なさい、と。

 

それでも、それでもどこかでこう思っていたのです。
「大学2年の入院した時も、その後も、会いに行くと『翼ちゃん』と呼びかけてくれた。私のことはわかるはず」

なぜか1mmもそのことを疑わずに入院している介護施設を訪れました。

 

車いすに座る祖父の後ろ姿は、前回会ってから一年しか経っていないとは思えないほどに年老き、衰えて見えました。 父が先に顔を見せて「会いに来たよ」と言うと、活舌が悪くなり聞き取りにくくなった声で反応した祖父。


ところが私の姿を見た祖父は、ニコニコして親族の誰かだと認識している様子を見せるものの、私の名前を呼びかけることはなく、どこか他人行儀に握手を交わしてきたのみでした。

「翼ちゃんがきてくれたよ、翼ちゃんだよ」と祖母が言って初めて「あぁ、翼ちゃん!翼ちゃん!」と言い、周囲の人に「紹介します、翼です」と言うのです。

 

正直、衝撃的でした。私を本当に翼と認識したのか、そういわれたからその場でそうしたのか。それすらわかりません。この人は何をどこまで覚えていて、今どの時間を生きているのだろうか。何をどの視点でどう話せばいいのだろうか。わからなくなりました。

 

その祖父が、父と私の他に祖母と母もいるのを見ると、急にほろほろと涙を流しだしました。「みんなおる、みんなおる」と。

祖母が用意したお年玉袋を渡し「お父さんから翼ちゃんに渡してください」と言うと、またそれが何かの尊厳であるかのようにほろほろと泣き「涙が出てきた」と言うのです。

 

記憶とは、不思議なものです。

一緒に過ごした時間は、明確な言葉や記録としては消えていっても、心のどこかに記憶として残っている。触れ合いは、確かに残る。

この涙をみて、これまでずっとお正月を祖父母と過ごしてきてよかったと、初めて思いました。

 

お正月は、嫌いです。
一週間しっかり休みを取れる機会も年末年始ぐらいしかなく、その間に行きたいところも沢山あります。

 

それでも、来年のお正月も、再来年のお正月も、私は富山へ祖父母に会いに来るでしょう。それが、続けられる限り続けられるところまで。

祖父母のためでも、両親のためでもなく、私自身のために。