ことばひとひら ~つーさんの妄想日和~

流されながら、向き合いながら、感じたモノを一片のコトバに

「みんないる」と涙する祖父――お正月に帰って

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お正月は嫌いです。

 

物心ついた頃から、お正月は父方の祖父母と暮らすものでした。 

それが嬉しかった頃もあります。

祖父母が富山から大阪に出てきて、ホテルに泊まる。そこに潜り込んで、ちょっと背伸びしたベッドで寝る。欲しいもの、やりたいこと、普段はなかなか買ってもらえないけれど、お正月は特別。おじいちゃんおばあちゃんが買ってくれる。

 

でも、いつからかそれが煩わしくすら感じるようになりました。

 

“それだけが楽しみ”で生活されている感じ。かけられる期待。「勉強はちゃんとせなあかんよ」。

私は、他人の生き甲斐のために生きているのではない。もっと自由にやりたいことをやりたい。なのに、やろうとすること・やったこと、全てが祖父母の視点で評価される。

 昔はボーリングに一緒に行き、英語やカメラも教えてくれた祖父母も、次第に体の自由が利かなくなっていきました。お正月も、何をするでもなくどこへ行くでもなく、だけど読書やらなんやらをしていたら「せっかくおじいちゃんおばあちゃんが来ているのに」と言われるようになっていきました。

私の休みだって限られているのに、見たいテレビも行きたい場所もやりたいこともあるのに。あの子の家は温泉旅行に、あの子の家は海外旅行に家族で行っているのに。

なぜ私は毎年祖父母の「相手」なのだろう。

そんな思いが少しずつ募っていきました。

 

そのうち、祖父母が大阪に出てくるのも大変になってきました。そして、私たちが富山へ行って年を越すようになりました。魚とお米は美味しいけれど、他は何もない。お正月でお店は閉まっている。そして寒い。毎年家で作っていたおせち料理も、購入のものに変わりました。


より状況が変わったのは私が大学2年生になったとき。

 

大学に入って初めての春休み、私はベトナムで6週間のボランティア系インターンシップに参加していました。不注意でバス上でスリにあったり、ビザの期間が入国時に申請と誤ったもので印を押されていたことに気が付いていなかったりというトラブルも多い経験でしたが、それも合わせて休学含む5年間の大学生活を方向付ける、私にとってスタート地点のような体験でした。

 

ところが、意気揚々と帰国して伝えられたのは、その6週間の間に祖父が入院したということ。転んでしまい顔にケガをしたため出不精になったところ、栄養失調および脱水症状に陥ったそうです。私が知ったときにはすでに入院から1カ月弱が経っていました。

お見舞いに行くと、そこにはいたのは自身で歩くこともままならずベッドに横たわる祖父でした。


安定して退院した後は在宅介護になりました。祖父の家に見慣れぬベッド、ベッドの横に置ける簡易のトイレ、車いす、車いすで移動できるようにするスロープなどが導入されていきました。

良くなるでも悪くなるでもなく、ヘルパーさんに定期的にお世話になり、父が月に1~2度大阪から車で富山に来て外に連れ出す。そんな日々が続きました。

 

そして昨年11月の末ごろ。再び祖父が入院したとの連絡が入りました。だから、社会人一年目の年末年始どうなるかわからないけれども、できるだけ帰ってきて祖父の元に一緒に来なさい、と。

 

それでも、それでもどこかでこう思っていたのです。
「大学2年の入院した時も、その後も、会いに行くと『翼ちゃん』と呼びかけてくれた。私のことはわかるはず」

なぜか1mmもそのことを疑わずに入院している介護施設を訪れました。

 

車いすに座る祖父の後ろ姿は、前回会ってから一年しか経っていないとは思えないほどに年老き、衰えて見えました。 父が先に顔を見せて「会いに来たよ」と言うと、活舌が悪くなり聞き取りにくくなった声で反応した祖父。


ところが私の姿を見た祖父は、ニコニコして親族の誰かだと認識している様子を見せるものの、私の名前を呼びかけることはなく、どこか他人行儀に握手を交わしてきたのみでした。

「翼ちゃんがきてくれたよ、翼ちゃんだよ」と祖母が言って初めて「あぁ、翼ちゃん!翼ちゃん!」と言い、周囲の人に「紹介します、翼です」と言うのです。

 

正直、衝撃的でした。私を本当に翼と認識したのか、そういわれたからその場でそうしたのか。それすらわかりません。この人は何をどこまで覚えていて、今どの時間を生きているのだろうか。何をどの視点でどう話せばいいのだろうか。わからなくなりました。

 

その祖父が、父と私の他に祖母と母もいるのを見ると、急にほろほろと涙を流しだしました。「みんなおる、みんなおる」と。

祖母が用意したお年玉袋を渡し「お父さんから翼ちゃんに渡してください」と言うと、またそれが何かの尊厳であるかのようにほろほろと泣き「涙が出てきた」と言うのです。

 

記憶とは、不思議なものです。

一緒に過ごした時間は、明確な言葉や記録としては消えていっても、心のどこかに記憶として残っている。触れ合いは、確かに残る。

この涙をみて、これまでずっとお正月を祖父母と過ごしてきてよかったと、初めて思いました。

 

お正月は、嫌いです。
一週間しっかり休みを取れる機会も年末年始ぐらいしかなく、その間に行きたいところも沢山あります。

 

それでも、来年のお正月も、再来年のお正月も、私は富山へ祖父母に会いに来るでしょう。それが、続けられる限り続けられるところまで。

祖父母のためでも、両親のためでもなく、私自身のために。