ことばひとひら ~つーさんの妄想日和~

流されながら、向き合いながら、感じたモノを一片のコトバに

ちょっと久しぶりの人に会うとよく、言われること

OBOG会続きな2カ月でした。
「久しぶり~!」の後によく言われることが面白くて、周囲から見た私のイメージを投影している気がしたので、この機会に少し書いておくことにします。

 

いつも見てるよ!Twitter!

学生時代からよく言われています。

きっと、タイムライン廣瀬尽くめになってる。
すみません……!
結構なツイッタラ―に気が付いたら育ってたからねー。

実際の返答もこんな感じのこと言ったり
「もう、みんな自分ツイートしないのに結構見てるんだから~!」と言ったり。

 

それに対して、凄く嬉しい返答を受けたことがあります。

『つーちゃんさんのツイートのおかげで、soarを知ったんですよ!』

 

もう、そんなこと言ってくれて喜んでくれる後輩が一人でもいるなら、メンヘラ扱いされてもツイッタラ―と笑われても、ずっとツイッタラ―でいい。笑

 

 いつも見てるよ!Facebook!

 これも学生時代からよく言われます。

この続きは、気になった投稿についての話題になるか、
「相変わらず色んなことやってて頑張ってるんだな~って!」

そこで「ありがとう!いろいろ投稿しちゃってるから、いまいち何やってるかわかりにくいよね……」と聞いてみると十中八九

「うん!でも、つーちゃんらしいなーって!」

 

そんなに元気よく「うん」って言わないで~笑
ごめんなさい、分かりやすく発信できてなくて……!
もうちょっとしたら分かりやすくまとまったページ作ろうかな……

 

他にも「つーちゃんさん、このあいだのあの投稿、すっごく共感しました!思わずコメントしようかと思ったんですけど」

けど、なんか諦めたらしい。

いやいや、投稿していいから!ぜひ交流してやって、廣瀬と!笑

 

なんか、大人っぽくなったね!/綺麗になったね!

これは去年から言われるようになったことですね。

OBOG会のような場だと少しフォーマルな格好をするからでしょうか。

あとは、選ぶピアスが少し大人っぽくなったこと、髪を伸ばしてハーフアップにしていることが影響しているのかもしれないです。

 

今年は「ありがとう、上下ユニクロ、顔すっぴん!」と返答(事実)。

笑われるか、「大丈夫です、私もユニクロ」と言われるか、「ユニクロいいじゃないですか」と言われるか、「え、すっぴん?!」と驚ろかれるかですね。

 

あれ?痩せた?大丈夫?ちゃんと食べてる?

これも社会人になってから言われるようになったこと。

確かに今年は一時期よりは少し痩せてはいるのですが、特に変わっていなくても言われることもあります。

着ている服の影響か、髪型の影響か……

 

自覚がない反応をすると(というか、体重計も家にないし、高校時代の方が痩せていたので、全く自覚がない)、たいてい「ちゃんと食べてる?休んでる?疲れてない?」と心配されてしまうのです。

ダイエットで望んで痩せたわけではない=よからぬ生活習慣で痩せた!と思われるのでしょうか。廣瀬は放っておくと健康そっちのけで走り回ると思われているのでしょうか。

 

みなさん、大丈夫です。廣瀬は元気です。元気でなければ、OBOG会のような場に足は運びません!笑

 

今は何やってるんですか?

1年前に会っている相手でも、ちょこちょこ聞かれる。

新しいことにどんどん首突っ込んだり、移り変わって行ったりする印象なのかな、私。

 

なんだか、大変そうですね

特に知人伝手に私の様子を聞いているような人に言われることが多いです。

噂で広がる話は「大変そう」って話が一番広がるもんね。

嘘ではないけど、それだけではないし、それなりに楽しく元気にやってるよ!

 

まだ働いてたんですね [NEW]

今回初めて聞かれたことですが、複数人に聞かれました。

どういうこっちゃ笑

 

あれ?フリーランスじゃなかったんですか?[NEW]

なぜ……?!

これも、今回初めて聞かれたことですが、複数人に言われたのです。
それも、「まだ働いていたんですね」以上に多かった。

みんな、フリーランスって何をフリーランスだと思って言ってる……?

 

写真、面白いですね。インスタ見てます [NEW]

ありがとうございます。

そんなに投稿本数多くなくて、他の人よりも投稿が活発なのがTwitterやFacebookなので、こう言っていただけるのは意外でした。

統一性はないのだけど、写真は好きだから、こう言ってもらえるのは嬉しい。

 

やっぱり、変わらないね

最後の最後の、定番。

いつも皆さん、ありがとうございます!

その涙は、真っ黒で、無色だった。

たいしたことは無いはずだった。

 

ただ、静かなお茶室で

そっと秋の空気に触れて

ぼんやり思い感じていたら

 

なんだか、ふと泣けてきて。

そのままなぜだか止まらなくなった。

 

これまで少しずつ積もっていたものが

わけもなく溢れ出してきたようで。

そういえば、ずっと前から泣きたかった、

そんな気がしてきた。

 

その涙は

怒り、戸惑い、悲しみ、絶望、

後悔、憎しみ、痛み、叫び、

全部ないまぜにした真っ黒な色で

 

そしてその涙は

特に意味はなく、

誰に向けられたわけでもなく、

何かを洗い流す無色だった。

 

 

今日の私には

同じ古民家の大広間ですら

人が集まり、刺激が強かった。

 

だからきっと、

優しく黙って包み込んでくれる茶室に

気が緩んだのだと思う。

 

 

一度溢れてくると、止まらない。

 

私は何をしてきたんだろう。

あぁ、今なんてダサいんだ。

何か残せたか、託せたのか。

やらない方が良かったのか。

ちゃんと、前進しているか。

ちゃんと、向き合って来たか。

本気で、打ち込んでみたことがあるか。

 

私は、何者だ?

私は、ちゃんと中身があるか?

 

なぜ生きてるのか、

なぜ生きねばならないのか

 

私とは、いったい何なんだ?

 

あぁ、ひとりだ。

あぁ、一人ぽっちだ。

私は、私は必要?不要?

 

 

不安になった。

心細かった。

 

誰かに抱きしめて欲しかった。

触れたかった。

だから自分をギュッと抱きしめた。

 

大丈夫だよ、あなたはここにいるよ。

肩書きじゃない、あなたがちゃんと

ここにいるよ、受け止めているよ。

誰かに、そう言って欲しかった。

 

いつの間にか上手くなっていた

声を挙げない泣き方。

それすらも、しばらく涙さえなくて

すすり声が少し漏れた。

 

「大丈夫か?」

そっと、気がついた彼が

小さく声をかけてくれた。

 

大丈夫ではない気がした。

この暗く心細いところから

引っ張りあげてほしい気もした。

 

でも、自分でも分からない。

何を話したいのか、何に泣いてるのか

自分でも分からない。

 

だから、ちゃんと反応出来なかった。

 

「自分が必要だったらいつでも声をかけて」

嬉しかった。優しかった。

 

すがりたかった。

 

助けて、という勇気は、なかった。

 

気にかけてもらえただけで、

その優しくささやく声で、

十分すぎた。

 

 

泣くのも、疲れた。

頭の中で色々な言葉がグルグル回る。

それも、疲れた。

 

何も答えは出ていない。

何も解決していない。

だけど、ずっと胸の奥に、

胃の奥につかえていたものが

少しだけ外れて通りが良くなった気がした。

 

扉の外には、クレヨンで描かれた

太陽のような赤いエネルギー体と

そこから育まれる可能性の絵があった。

まだ片想い妄想メモ:コラボしたい企画【随時更新】

アレルギー対応の旅でコラボしたい企画や団体。
旅そのものでも、イベント単発でも、広報でも、メッセージ発信でも。

※注意※
すべて、つーさんの勝手な妄想なうです。

 

リディラバ

ridilover.jp

アレルギーっ子家族ではなく、一般を対象にしたいかも。

取り組む事業者の声を聞けたり、

顧客対応取り組み解説(私だ)

アレルギー対応に取り組むサポートデスクのコメントなど。

あと、300円握ってコンビニに行ってもらい、
「●●と○○にアレルギーがあったとしても
 食べられるものを選んできてください」という
ワークをやりたい。


ネックは、スタツア並みに組もうと思うと

行先が沖縄ってこと。

 

 

Soar

大好き。どんなコラボできると嬉しいかなぁ。
アレルギー対応沖縄サポートデスクの田村さんインタビューとかしたい。

沖縄までいかなきゃだけど。

soar-world.com

 

 

VERYのママ旅プロジェクト

ママと子どもで行く、MeeT VERYのプロジェクト。

パパお留守番でごめん。

meet.veryweb.jp

 

 

 旬香周島おきなわ 家族旅

沖縄だし!ここにアレルギー対応旅行載らにゃ!

cp.okinawastory.jp

 

  

All About

暮らしの、家族旅行・子連れ旅行の記事

allabout.co.jp

 

 

Hanako / Hanakoママweb

おでかけ情報のコーナーに

hanakomama.jp

 

mamari

mamari.jp

対象層としては、ちょっと子どもの年齢が低めかな?
まだ赤ちゃんが多い印象。

旅行内容より、参加されたママさんの
アレルギーっ子をもっての日常や
旅行への感想などがイメージ近いかな。

廣瀬休業(というか休息)、ふたたび

沖縄アレルギー対応ツアーが無事終了しました。
だがしかし、私これからの方が重かったりします。

ツアーは後の情報管理やお金周りが残っていて……
次のツアーの準備もタイムライン合わせないと……

まだまだ追ってくるもろもろが山積してのしかかってくるのに、一山超えたと緊張の糸はぷっつんしてしまう。だから、明確な目標やお客様の顔があったこれまでより、これからの方が重いのです…… 
 
あと、からだがあちこち痛い。
 
変な体勢、いつもはしないかがみこんだ姿勢で写真を撮り続けるからで、今回撮った枚数は3日間で2,000枚近く。その他、ちびっこを抱っこしたりもしています。
ツアー2日目の夜から右脚ふくらはぎが攣ってしまい、寝ては足を引っ張られたり足がもげたりする夢を見て目を覚まし、そしたら足が攣っていての連続。
さっそく整体院行って来たら「堅いですねぇ」と言われました。諸悪の根源は腰だそうですが。
 
ということで、1~2週間は省エネ活動でいきます。
 
 
これまで取り忘れてきた代休と、消化していない有給をひっつけたら2週間ちょっとになるから、一気にとってベトナム帰るかウユニ塩湖行くかしたいなぁーーー……(夢)

「機能的」と「非機能的」の融合を探る

「つーさんは、もっと機能的になったらいいと思いますよ」

大学時代の私も知る友人にそう言われて、心底驚いた。

「やだよ!機能的なのなんてシゴトでもう十分!!十分すぎるぐらい、週のほとんどは機能的なんだから!!」

反射的に答えた自分にも驚いた。ほとんど、怒っているに近かった。

「まあ、そうですねー」

なんの不思議もなくそう答える彼に、これでいいのかこの社会というモヤモヤした疑問が湧いてきた。

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“機能的”“非機能的”とは、その日のお昼に参加したヒューマンラボで出てきたキーワードだ。

ヒューマンラボとは、ただ“人間の可能性”にワクワクし探求したい友人で集まり、その時々の持ち寄り制のお題を一緒に考えたり体感したりしている。とはいっても、まだ2回目。どう発展していくかも、流れに任せるようないい意味の自然な緩さがあって心地いい。

その中で参加していた一人が、大学の先生の話をお題に持ってきてくれた。

 

「“非機能的”に生きることについて考えてみたい」

 

一般的には“機能的”が是とされる世の中で、しかしその先生は“非機能的”な生き方こそ重要だと話すそうだ。その“非機能的”な部分が、多様なものを受け入れることにつながるのだと言う。 

 

なんだかわかるようなわからないような投げかけだった。

 

“無駄が大事”とは違うのか?

“余裕・余白が大事”とは違うのか?

 

 “機能的に非ず”なのだから、そもそも“機能的とは”を考えるとその違いがわかりやすい。

“機能的”とは、何か目的があってそれを達成するために活動している状態をいう。

つまり、無駄なことをしているときでも、そうすることで別の視点を得ようなどしていればそれは“機能的”活動になる。余裕や余白についても同じで、フリーズしてしまうことを避けて長く動くためになど考えていれば、そのために余裕や余白を作ることは“機能的”となる。

 

そうやって考えていくと、もはや何なら“非機能的”と言えるのかわからなくなってくる。私たちに“非機能的”である時間はあるのか?みんなで円になりながら思い巡らせた。

 

「小学生の頃は、目的とか何もなく、ただ楽しいから『わ~い』って川で遊んでた」

無邪気な笑顔でそんな答えが挙がった。

 

ああ、あの日々か。いいな。長らくそんな“心赴くままに”なんてないかもしれない。

 

そんな空気が全体に流れた。

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終わった後も、なんとなくわかったようで、やはりどこかつかみどころがなかった。だから、帰りの電車の中で参加していなかった友人にも話してみた。そこで当たり前のように「つーさんはもう少し機能的になったらいいと思いますよ」と言われたのだ。

 

彼の眼には、私が“非機能的”に映っているということになる。

彼が知っている私は何をしているのだろう?

 

接点を考えてみた。ほとんど、いわゆるオフの状態のときに会っているなと気が付いた。そんなときに私は何をやっているかというと……

 

「ただ気が向いたままに写真を撮る」

特に売ったりしない。頼まれたわけでもない。ただ楽しんでいるだけで、SNSのシェアもしたりしなかったり。シェアしているのは結果的にそうなっているだけであって、撮っているときはまったくそんなことは考えていない。いいものが撮れると喜んでその場で見せびらかす私は、傍から見るとただの好奇心旺盛で「できた!見て見て!」と嬉しそうに尻尾をぶんぶん振り回している犬のようだろうなと、振り返りながら自分でも思う。

 

「ただ、文章を書く」

これもお金にするわけでもない。特にシェアしてPV数を稼ぎたいわけでもない。後から読み返すかというとほとんど読み返さない。今だって、ただこの時の情景がふっと湧いてきて言葉が零れ落ちるから文面にしているだけで、まったく生産性と呼ばれるものがない。なんなら夜のスタバで終電を逃し消費活動しかしていない。

 

「ただ話す」

もうただ話している。ただ「面白そう!」と叫んでいる。話したからってそれを翌日から活かそうとか自分を変えようとか、基本的に一切思わない。ただ一度話したことは気になるから、その後も目に付くようになって情報量が拡大するだけだ。大丈夫か私こんな単細胞で。このあたりまで考えていてなんだか逆に悲しくなってきた。

 

「とりあえずお酒を誰かと飲む」
別に話したいことなんてない。ただ一緒に飲みたい。それだけ。しかも、飲みたくない気分の日もあって気まぐれ。だからやたら人を誘うくせに誘われても「今日は飲めない」とか平気で言ってしまう。いや、もうただの自己中じゃないか。

 

「とりあえず踊る」

ダンス大好き。うまく踊ったから何ってわけじゃない。社長と自分しかいない会社で忘年会も新年会もなくどこで披露するわけでもないのに恋ダンスが完璧だとか、よく考えると全く理解できない。

 

 

とにかく、そういった場の私しか見ていない人からしたら十二分に“非機能的”に見えるらしいことは納得した。事実、その瞬間は特に何も考えず“非機能的”であれている気もする。

 

けれど、私は反射的に全否定するほどに、自分がありたいように“非機能的”にあれていると思えていないのだ。自己の感情やモヤモヤに蓋をして、立場と状況で動いている時間が長いのだ。

 

私にとっては“非機能的”になれないことではなく、生活の中で“非機能的”な瞬間と“機能的”な瞬間が大きく分断していることが大きな問題なのではないかと気が付いた。

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その乖離は少しずつ大きくなり、それが自身を苦しめているのではないか。だからこそより一層“非機能的”瞬間の“非機能的”度合が高まっているのではないか。

 

私の「シゴトで十分」の一言に、これまた当たり前に「まあそうですね」と答えられたように、社会ではシゴトは“機能的”になっている時間であり、“機能的”になることはしんどいのだというのが常識ならば、これもまた問題なのではないか。

 

けれど、シゴトに置いては“機能的”であることを100%消し去ることはできない。

 

“非機能的”であることがよく、“機能的”であることが悪いのではなく、偏っていることが良くないのではないか?

 

 

では、“機能的”な時間に“非機能的”を持ち込むことはできるのだろうか?
“機能的”と“非機能的”の両立は図れるのだろうか?

 

とりあえず、スマフォの画面を自然の写真に変えてみた。ちょっとイライラしたり、感情が死んだ音がした時には、その画面を見ながら小さく一つ息を吐く。

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まだ何か大きく変わった気はしない。両立を図れている気もしない。だけど、多分こういった小さなきっかけ一つ一つで変わるのだと思う。

 

“非機能的”な自分と“機能的”な自分が、融合できるまで。

乱れたダイヤに、手を差し伸べられなかった社会と私

混乱していた。みんな、いらだっていた。

電光掲示板から、出発時間の表示が消えた。電光掲示板に書いてある電車の行先と、電車に表示されている行先と、アナウンスで流れる行先がすべてバラバラだった。複数人の駅員さんが階段から上がってきて話し合ったりアナウンスしたりをしていた。

そうして、電光掲示板自体の電源が落とされた。

電車を降りて遅刻の電話をしようとする人、JRの駅まで歩いて移動しようと出ていく人。通勤時間にぶつかった信号トラブルと人身事故による遅延に、発車を待つ電車の中とホームは人であふれていた。

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京急蒲田の駅は少しややこしい。
次はどちらのホームから品川方面の電車が出るのか、今度の電車は羽田方面か品川方面か。引っ越してきたばかりの時は困ったものだった。

そんな駅で電光掲示板が消え、駅員も相談しあい、アナウンスはコロコロ変わる。もう諦めるしかなかった。

遅刻は確定。午前にミーティングの予定はなかったから、1本遅れても2本遅れても大差ない私は、どの電車が先に出発するかは関係なしに、確実に品川方面へ出るホームの電車に乗って待った。

 

そのとき、目の端にクルクルと円を描いて走りまわる人影が留まった。一瞬立ち止まって消えている電光掲示板を眺め、ポカンとした後、またホーム上をクルクル円を描いて走る。ふざけているのではない、必死な様子で、走る。

私は、彼を知っていた。

 

 

最初に彼を見かけたのは、4月。新生活が始まる季節だった。

一番後ろの車両にあたるホームライン上に立っていた彼の横には、お母さんと思わしき女性がいた。穏やかに、にこやかに話すその女性は、彼と電話の場所を確認し、降りる駅の確認をしている様子だった。その光景は「はじめてのおつかい」を見ているようだった。

けれど、ニコニコしながらおとなしくうなずく彼は、大人に見えた。少なくとも「はじめてのおつかい」の年齢ではない。成長期を過ぎた男性だった。

 

電車がホームに滑り込んでくると、女性がなぜそんなに確認を続けていたのか、すぐにわかった。女性は電車に乗り込まず、彼だけを送り出したのだ。

閉まるドア越しにずっとホームを見つめていた彼は、女性の姿が見えなくなるとクルリと向きを変えた。そして、おもむろにブツブツと脈絡のない音や単語をしゃべりながら、反対側の窓から外を見にいったり、戻ってきたり、つり革を持ってみてすぐ離したりと、じっとすることを知らずウロウロしだした。

彼は、何らかの発達障害があるようだった。

 

翌日も、彼は同じ電車に乗っていた。毎日のように見送りに来ている女性が見えなくなるまでホームを見つめ、見えなくなったら誰にも迷惑をかけずにおとなしくウロウロしだす。

「誰にも迷惑かけずにおとなしく」と「ウロウロ」は普通だったら矛盾しているようにも感じるのだが、極端に大きな声を出すこともないし、走ることもなく、誰かの足を踏むこともないのだから、やはりおとなしくウロウロなのだ。

中にはそんな彼を見て怪訝な顔をしながら席を移る人もいた。けれど、私にはまったく不快ではなかった。むしろ、彼には私たちがどう見えているのだろうと不思議で、想像してみるのが面白かった。

彼が電車の中で歩き回るのにはパターンがあった。定期的に路線図や電光掲示板の前で立ち止まり、ブツブツ話す。そのときに聞き取れる単語は明確で、駅や電車が好きなようだった。文字認識は高いのだろう。そして何かを納得したようにまた動き出す彼に、多分怪訝な顔をして立ち去る人が思っている以上に彼は色々考えているし賢いのだと思った。

 

初めて彼をホームで見かけてから2週間ぐらいたったところで、一緒にホームまで来ていた女性を見なくなった。彼は一人でホームまで上がり、決まった電車に乗る。

ときどき電車遅延でいつもの電車より1本前の車両が止まっているときには、きちんと先に出る方の電車に乗ってきた。やはり文字認識が高く、電光掲示板を確認して電車を選んでいるのだろう。彼は、賢かった。

 

彼は私より先の駅まで電車に乗っていた。だから、どの駅で降りるのか、私は知らない。名前も知らない。話したこともない。

けれど、毎日彼を見るのがあたり前になり、彼を見かけないと「今日はどうしたのだろう?」とぼんやり気にかかるようになった。その翌日また電車で見かけると「あ、よかった」と思うのだった。

 

 

その彼が、目の前で困ってクルクル走っている。いつものように、叫んだりせずおとなしく、でも足早に。

いつもと違い人であふれている駅。いつもと違うアナウンスの嵐。消えている電光掲示板。混乱しているのだろう。

一般人ですら状況把握に時間がかかり、どの電車に乗ったらいいのか悩むこの環境は、彼にとってイレギュラーで情報量が多すぎるに違いない。

 

私は知っていた。彼のことも、恐らく発達障害であるだろうことも、毎日同じ時間に同じ電車で同じ場所へ向かっているであろうことも、その彼が品川より向こうの駅まで行くことも、そしておそらく今ここにいる他の人のほとんどがそれを知らないことも。私は、知っていた。

声をかけなければ。けれど、一瞬の迷いがよぎった。

 

だって、彼は私を認知してないかもしれない。これまで一度も話したこともないし、名前も知らない。知らない人に声をかけられたら……余計なお節介なのではないか?それに、仕事にだって遅刻だ。

 

その一瞬の迷いのうちに、急にベルが鳴り、私の前のドアが閉まった。

ドアの向こうで、彼は急に落ち着いて、ホームのライン上に並んだ。とにかく電車は動いているとわかって、待つことにしたようだった。やはり、彼は賢い。

 

けれど、ダイヤ乱れの電車は特殊だった。すべて品川止まりなのだ。品川からはJRの振替輸送を頼むしかない。

誰がそれを彼に伝えるのだろう?誰が、振替輸送でどの路線に乗ったらいいか案内するのだろう?

 

きっと毎日同じ場所に通っているのだから、その先の人が途中で電話をかけてくるに違いない。けれど、それは彼が遅刻しているからどうしたのだろうかとなってからだろう。それまで、電車が大幅に乱れているとは気が付かない可能性は、決して低くない。そして、その電話に救われるまでの間彼の前に立ちはだかる障壁は測りしれない。彼はどれだけ不安で必死だろうか。

 

一瞬迷った自分が悔しかった。遅刻がなんだ?どのみち遅刻するのであれば、変わらなかったろうに。無性に、苦かった。

 

 

電車遅延のとき、振り替え輸送のとき、耳が聞こえない人や海外の人には情報が足りなさすぎるという問題意識は以前から持っていた。2020年までになんとかならないかな、と人と話題にしたこともある。

けれど、そのとき発達障害の人も同様に困るとまでは考えが及んでいなかった。

 

耳が聞こえない人は、それでも駅員さんに筆談するなどできる。
海外の人も、英語で聞けるし、近年は気にかけて英語で話しかける人も少なからずいる。

 

でも、発達障害で困っている場合は……?なかなかそのことを知らないと手を差し伸べるのは難しいのではないか?

何か、行先や連絡先がわかるものを。
そして、毎日出会っている人も見守ることを。手を差し伸べる勇気を。
きっと、その小さな一工夫が、だけど重要で、だけど足りていない。

 

今日、社会は彼に手を差し伸べられなかった。
私も、一瞬の迷いが邪魔して差し伸べられなかった。
他の人たちも、彼に手を差し伸べられるほどに彼のことに気が付いていなかった。

 

少しずつでいいから、日ごろから気付きあって、何かあれば手を差し伸べられるようになりたい。

生きたいのは「天職は廣瀬翼」と言える人生

 祖父の容態悪化、近づく天命

祖父の容態が悪化。重症感染症と思われる。

 

そう父から連絡を受けたのは、ゴールデンウィーク明けの5月8日。前日まで大阪に帰省し、両親とも今後について話していたところだった。

そのゴールデンウィーク中にも、一度急な下血の連絡が入り、父は富山県高岡市の祖父の元へ急遽車を走らせ戻っていた。一晩で安定し、大阪に戻ってきたのが5月6日。たった2日での再急変だった。

申し訳程度に送られてきた「現在、意識レベル、血圧は戻っている」というメッセージ。それはつまり、意識不明の重症で血圧も大幅に下がっていた時期がある、ということでもある。

 

もう、ダメかもしれない。そろそろ、お迎えが来ているのかな。漠然と感じたことを、両親はより強く感じているようで、「心の準備をしなさい」「何かあったとき周囲へできるだけ迷惑がかからないように準備しておいて」「礼服としてブラックスーツをクリーニングに出しておくように」と淡々と伝えられた。

 

「だって、ついこの前会った時には、歩けこそしなかったものの、元気に話してご飯を一緒に食べたのに?」そう思って振り返ってみると、最後に祖父に会ったのは年末年始。もう、それは4カ月も前の事。今の祖父の体には、長すぎるぐらいの期間だ。私はなんと何も考えずに、飛ぶように時間を駆け抜けてきたのだろう。なんと時間を体感していなかったのだろう。怖くなった。

 

「そう言えるのは、見ていないからだ」という一言

年末年始に会ってからの4カ月の間に、祖父は総合病院に移り、いよいよ寝たきりで車いすで移動することもなくなっていた。口から物を食べることが出来ず、バイパス手術をするかどうか医者との議論もあったそうだ。「あったそうだ」というのは、ゴールデンウィークに帰省するまでその一切を父が背負い、東京にいる私や妹には伝えられていなかったから、いつからそうなのか私は知らない。

 

「なぜ、それを伝えてくれなかったのか?」という両親への不信感。知っていれば、もっと早くに会いに行ったし、父の負担も減らせたかもしれないのに、という悔しさ。初めて近親者の死がちらつく状況への不安感。最初に入院してから早5年、長く続いた方だしそろそろ時期だろうと思う冷静な自分。

 

「今からバイパス手術をしたって、そもそも体力がもつかもわからない。手術が成功して食べられるようになる可能性だって、低くはないけど高くもない。それ以上に、手術自体は成功しても、それがもとで感染症になる可能性だってある。お金だって、どこから出すの?ダメかもって言われて、要介護になってから、長いじゃない。もう、自然に逆らう必要も、ないでしょう」

 

帰省中、そう話した私に、父は寂しげな笑顔で「そう言えるのは、翼が見ていないからだよ」と一言だけ返した。とても疲れたその声は、何も答えられなくなってしまう、ほとんど聞いたことがない父の弱音だった。

 

私は祖父に、何を思う

その一言に私は「お前は、血も涙もない。感情を無視して合理的にそう言えるのは、寄り添っていないからだ」とすら言われたような気がして、それは考えすぎだとどこかで思いながらも、奥歯を噛んだ。

 

そんなことはないはずだ。私だって、嫌だなと思ったり他に行きたいところがあったり、それでも限られた長期休暇を使って毎年年末年始には祖父母の元へ行っている。元気だった祖父も知っている。こんなに簡単に老いるのかと、見ている。見ているから、もう見たくないとも思ったり、だけど、私の読書好きや海外への関心、カメラ好きなのはまぎれもなく祖父の影響で、祖父は私の一部でもあると思っている。

 

様々な思いが乱れて、だけど人が老いていきいつかは死ぬのは当然で。この数年で見ていると、どう考えても祖父は既に衰退の段階に入っている。それを、自然に逆らってまで生かそうとするのは、それこそ残される者のエゴであり残酷ではないか。

けれど、この4か月私はほとんど状況をこちらから確認することもなく、のうのうと暮らしてきたのも事実。その間、父は毎月高岡へ帰っていた。祖母はつきっきりだ。本当に気にしていれば連絡もしただろうし、その気になれば顔を出すこともできた。そうしなかったのは、どこかで老いていく祖父を見るのが怖いと思っている自分がいたからでもある。

 

大好きな仲間の大舞台と、見舞いで揺れる選択

ちゃんと一度、会いに行かなければ。会いに行くとなれば、一週間のうちに2度も状況が悪化したのだから、可能な限り早く行く方がいい。

けれど、その週末は参加しているコミュニティ「ワークル」の半期発表会と被っていた。

 

「仕事と家以外の第3の場所として、組織を越えて、やりたいことでつながる」そんなサービスとコミュニティを運営しているワークル。運営者もみんな同世代の友人で、私自身が今一番ほっとする場でもある。この半期発表会は、そんな仲間たちがこれからの働き方と生き方を考えたり、半年の歩みを発表したりする一大イベントだった。

 

数か月前から楽しみにしていた。友人が前で登壇するのも聞きたい。そんな友人の雄姿を写真に撮りたい。半年前は仕事の関係で行けなかったので、今度こそと考えていたのに。

 

正直、ものすごく悩んだ。

 

祖父に会いに行くのは、一週間遅らせたっていい。最悪、仕事を休んだっていい。でも、半期発表会は日にちをずらせない。

 

けれど、祖父はこの一週間で2度状態が悪化している。そんな祖父にとって一週間はきっと長く、一週間遅らせたから最後に会うことができなかった、という可能性だってあるかもしれない。

 

私にとって、今大事なのは何なのだろう?

 

祖父とは関係なく私の生活はあって、私の居場所はあって、今の私の舞台は東京で語れる仲間たちで。

 

だけど血縁は切っても切れない関係で、祖父の孫は私と妹の2人しかいなくて、初孫は私しかいなくて。私にとっても祖父は祖父しかいなくて。

 

「私」はいったい何者だ?誰のための者だ?私が顔を向き合わせるべきは何なんだ?

 

混沌とした感情の中で、結論を出すに至ったキッカケは「天職は廣瀬翼」という言葉だった。

 

モヤモヤから生まれた「天職は廣瀬翼」というフレーズ

「転職」だとか「天職に出会おう」という言葉が周囲にあふれるようになってきて、どこかで違和感を覚えていた私。

 

”天職”は、探せばあるのか?用意された椅子がある物なのか?あるいは、”職業”でなければならないのか?肩書が天職なのか?

“天職”は、働かなければいけないのか?「働く」と「生活」を分けて考えるのか?自分のアイデンティティを、仕事に持たなければならないのか?

私はそれよりも、もっと自由に生きたい。仕事や肩書と関係なしに、呼吸するように生きたい。お腹の底から、感じるように物事を選択したい。それが、生活につながっているような人であれたら、どんなに幸せだろう。

 

そう思ってフッと降ってきた言葉が、「天職は廣瀬翼と言える人生」というフレーズだ。この言葉に立ち返ったとき、自分がどこに行くべきなのか、霧が晴れるように明白に見えた。


ありたい私のために、大切なものを言い訳には使えない

活動的で友人とのつながりを重要視する。足を運び、キャリアや志、未来について語る。誘われたら断らない私。それは、まぎれもなく今の私のコアに近いものだけれども、「ある」ものではなく「作って」きたものだ。そうあらねばと、思い込んできたものだ。

 

気がかりがある今、腹の底からそちらを選択できない。迷いがある時点で「ある」ものではないのだと気が付いた。

 

それどころではない。本当は、祖父に会うのが怖い自分がいた。命や死と向き合うことに、もう十分だと、もう嫌だと恐れている自分がいた。本当に、本当に活動的で友人とのつながりを重視し、志持ったものを愛するならば、それを逃げる理由にしてはいけない。そう、強くこみ上げてきた。

 

だから私は、みんなが半期発表会の準備に集まる日、一人北陸新幹線で富山の高岡へ向かった。そして、この祖父の見舞いを通して「天職は廣瀬翼」という考えはより強固なものとなる。

 

肩書もなく、そこにいる祖父。それを愛おしく見つめる祖母

事前に連絡を入れたところ、私に合わせて父も高岡に戻っており、駅まで迎えに来てくれていた。「ついこの間も来たところで疲れるからいいよ」と口では言っていたものの、自分の運転に祖母は乗せたくないし、一人で会うほどの勇気はまだなかったのでとても助かった。

 

祖父は、近隣で一番大きな病院の一室に入っていた。カーテンを開けてのぞくと、目を覚ましていた。

 

この4カ月で驚くほどやせ細っていた。腕もお腹も骨と皮で、その体は今までよりも一回りも二回りも縮んだように感じ、人間はこんなにも頭が大きいのかと思った。血管も弱くなっているので内出血しており、腕は紫色だ。顎の筋力も落ち、常に口を開けているうえ、口から飲食できていないため舌まで乾燥し、動かすのが見た目に痛そうだった。

 

祖母が来た、父が来た。そのことに気が付いた祖父は何やら話そうとしていたが、滑舌の悪さと途切れ途切れの言葉に、最初は全く何を言っているのかが分からなかった。

不思議なもので、しばらく一緒にいると、それでもだいぶコミュニケーションが取れるようになる。小さな子供を相手にしているときや、初級者に日本語を教えているときの感覚に近かった。


どうも祖父は父が来たことを喜び、一緒に外に行きたくて仕方ないらしい。自分の健康状態までは理解できていないから、食べられると思っていて、外に出るために点滴をはずせと訴えていた。

 

そんな祖父を祖母は嬉しそうに見つめて、笑っていた。

 

「このあいだ病院に呼ばれたときは、意識も無くてただ口を大きく開けていただけやったのに、外行きたい言うぐらい元気になって」

看護師さんの巡回で、「安定してますね」と言われたときも、私が今まで見たことのないような笑顔で「ええ、ええ、そうやろ、そうやろ」と嬉しそうに話す。

一方で、祖父の寝顔を見ながら「こん人おらんなったら、よーせん。わしはどーしたらええか」と涙目になりながら呟いていた。

 

ここにいる祖父は、もう寝たきりだ。何をするのも看護師さんのお世話になり、腕や脚から管を通して栄養を取ることで命をつないでいる。

昔のように本の話もできなければ、一緒に食べることもできない。寝ては記憶がリセットされ、時には亡くなった祖父のお父さんを見たり。


なのに、祖母はこんなにも愛おしそうに祖父を見つめ、この状態の祖父でも「いなくなったらどうしよう」と言うのだ。

 

そこには、ただ「祖父」がいるだけだった。元市役所公務員だとか、留学生の身元保証人だとか、そういった肩書は関係ない。看護師さんも、祖母も、父も、見て話しているのはただの「祖父」だ。ただの「祖父」だけを見て、話しかけていた。

 

あぁ、老いていくと、積み上げてきたものも実績も肩書も待たなくなって、紡いできた関係性だけが残り、ただの「自分」になるのか。鮮明に、そう感じた。



生まれるときも死ぬときも、人に肩書はない

そうだ、私たちは「おぎゃあ」と生まれた瞬間に職業はなく、肩書もない。何も着ないでで身一つ、両親の愛情と眼差しの元に生まれてくる。

 

死ぬときも、職業も肩書もない。

 

私はただ「廣瀬翼」として生まれ、「廣瀬翼」として生き、「廣瀬翼」として死ぬのだ。それが私の宿命で、役目で、勤めだ。

 

だから、何をやるかではなく、呼吸をするように生きて、お腹の中から感じたい。悪いことはしない。いいことはいいっていう。全身で、感じる。

 

私が生きたいのは「天職は廣瀬翼」と言える人生だ。