「機能的」と「非機能的」の融合を探る
「つーさんは、もっと機能的になったらいいと思いますよ」
大学時代の私も知る友人にそう言われて、心底驚いた。
「やだよ!機能的なのなんてシゴトでもう十分!!十分すぎるぐらい、週のほとんどは機能的なんだから!!」
反射的に答えた自分にも驚いた。ほとんど、怒っているに近かった。
「まあ、そうですねー」
なんの不思議もなくそう答える彼に、これでいいのかこの社会というモヤモヤした疑問が湧いてきた。
“機能的”“非機能的”とは、その日のお昼に参加したヒューマンラボで出てきたキーワードだ。
ヒューマンラボとは、ただ“人間の可能性”にワクワクし探求したい友人で集まり、その時々の持ち寄り制のお題を一緒に考えたり体感したりしている。とはいっても、まだ2回目。どう発展していくかも、流れに任せるようないい意味の自然な緩さがあって心地いい。
その中で参加していた一人が、大学の先生の話をお題に持ってきてくれた。
「“非機能的”に生きることについて考えてみたい」
一般的には“機能的”が是とされる世の中で、しかしその先生は“非機能的”な生き方こそ重要だと話すそうだ。その“非機能的”な部分が、多様なものを受け入れることにつながるのだと言う。
なんだかわかるようなわからないような投げかけだった。
“無駄が大事”とは違うのか?
“余裕・余白が大事”とは違うのか?
“機能的に非ず”なのだから、そもそも“機能的とは”を考えるとその違いがわかりやすい。
“機能的”とは、何か目的があってそれを達成するために活動している状態をいう。
つまり、無駄なことをしているときでも、そうすることで別の視点を得ようなどしていればそれは“機能的”活動になる。余裕や余白についても同じで、フリーズしてしまうことを避けて長く動くためになど考えていれば、そのために余裕や余白を作ることは“機能的”となる。
そうやって考えていくと、もはや何なら“非機能的”と言えるのかわからなくなってくる。私たちに“非機能的”である時間はあるのか?みんなで円になりながら思い巡らせた。
「小学生の頃は、目的とか何もなく、ただ楽しいから『わ~い』って川で遊んでた」
無邪気な笑顔でそんな答えが挙がった。
ああ、あの日々か。いいな。長らくそんな“心赴くままに”なんてないかもしれない。
そんな空気が全体に流れた。
終わった後も、なんとなくわかったようで、やはりどこかつかみどころがなかった。だから、帰りの電車の中で参加していなかった友人にも話してみた。そこで当たり前のように「つーさんはもう少し機能的になったらいいと思いますよ」と言われたのだ。
彼の眼には、私が“非機能的”に映っているということになる。
彼が知っている私は何をしているのだろう?
接点を考えてみた。ほとんど、いわゆるオフの状態のときに会っているなと気が付いた。そんなときに私は何をやっているかというと……
「ただ気が向いたままに写真を撮る」
特に売ったりしない。頼まれたわけでもない。ただ楽しんでいるだけで、SNSのシェアもしたりしなかったり。シェアしているのは結果的にそうなっているだけであって、撮っているときはまったくそんなことは考えていない。いいものが撮れると喜んでその場で見せびらかす私は、傍から見るとただの好奇心旺盛で「できた!見て見て!」と嬉しそうに尻尾をぶんぶん振り回している犬のようだろうなと、振り返りながら自分でも思う。
「ただ、文章を書く」
これもお金にするわけでもない。特にシェアしてPV数を稼ぎたいわけでもない。後から読み返すかというとほとんど読み返さない。今だって、ただこの時の情景がふっと湧いてきて言葉が零れ落ちるから文面にしているだけで、まったく生産性と呼ばれるものがない。なんなら夜のスタバで終電を逃し消費活動しかしていない。
「ただ話す」
もうただ話している。ただ「面白そう!」と叫んでいる。話したからってそれを翌日から活かそうとか自分を変えようとか、基本的に一切思わない。ただ一度話したことは気になるから、その後も目に付くようになって情報量が拡大するだけだ。大丈夫か私こんな単細胞で。このあたりまで考えていてなんだか逆に悲しくなってきた。
「とりあえずお酒を誰かと飲む」
別に話したいことなんてない。ただ一緒に飲みたい。それだけ。しかも、飲みたくない気分の日もあって気まぐれ。だからやたら人を誘うくせに誘われても「今日は飲めない」とか平気で言ってしまう。いや、もうただの自己中じゃないか。
「とりあえず踊る」
ダンス大好き。うまく踊ったから何ってわけじゃない。社長と自分しかいない会社で忘年会も新年会もなくどこで披露するわけでもないのに恋ダンスが完璧だとか、よく考えると全く理解できない。
とにかく、そういった場の私しか見ていない人からしたら十二分に“非機能的”に見えるらしいことは納得した。事実、その瞬間は特に何も考えず“非機能的”であれている気もする。
けれど、私は反射的に全否定するほどに、自分がありたいように“非機能的”にあれていると思えていないのだ。自己の感情やモヤモヤに蓋をして、立場と状況で動いている時間が長いのだ。
私にとっては“非機能的”になれないことではなく、生活の中で“非機能的”な瞬間と“機能的”な瞬間が大きく分断していることが大きな問題なのではないかと気が付いた。
その乖離は少しずつ大きくなり、それが自身を苦しめているのではないか。だからこそより一層“非機能的”瞬間の“非機能的”度合が高まっているのではないか。
私の「シゴトで十分」の一言に、これまた当たり前に「まあそうですね」と答えられたように、社会ではシゴトは“機能的”になっている時間であり、“機能的”になることはしんどいのだというのが常識ならば、これもまた問題なのではないか。
けれど、シゴトに置いては“機能的”であることを100%消し去ることはできない。
“非機能的”であることがよく、“機能的”であることが悪いのではなく、偏っていることが良くないのではないか?
では、“機能的”な時間に“非機能的”を持ち込むことはできるのだろうか?
“機能的”と“非機能的”の両立は図れるのだろうか?
とりあえず、スマフォの画面を自然の写真に変えてみた。ちょっとイライラしたり、感情が死んだ音がした時には、その画面を見ながら小さく一つ息を吐く。
まだ何か大きく変わった気はしない。両立を図れている気もしない。だけど、多分こういった小さなきっかけ一つ一つで変わるのだと思う。
“非機能的”な自分と“機能的”な自分が、融合できるまで。