ことばひとひら ~つーさんの妄想日和~

流されながら、向き合いながら、感じたモノを一片のコトバに

教え子との再会――海外インターンシップの半年で確かに得たもの

時計の音が今日はやけに大きく感じる。
20時30分。それが今日のタイムリミット。刻一刻と時間が迫っていた。

急がねば。急がねば。

焦れば焦るほど、時間が経つのが早くなり、しかしそれと比例するかのように手はまごつく。よし、これでいい。そう思って最後にメール送信ボタンを押そうとするのだが、その度に編集忘れのページが発見される。出口が見えなかった。一生終わらないのではないかと思うほどの絶望感に襲われていた。

今日中に終わらせなければならない。今日中に資料を送信しなくては、後々のタイムラインがどんどん遅れ、自身の首を絞めるだけでなくプロジェクト自体が回らなくなる可能性だってある。これだけは終わらさなければ会社を出ることはできない。

けれど、今日はどうしても20時30分に会社を出たかった。今日だけは、譲れない理由があった。

 

何とか送信ボタンをクリックし会社を出たときには、すでに20時45分直前だった。伝えていたより15分遅くなりそうだ。走りながらFacebook Messengerを開き、ほとんど手元も見ずにフリックする。

「今、会社出ました!新宿に21時15分ごろ着きます。少し遅くなって、ごめんなさい」

即座に既読がつき、少し間をおいて返信がきた。

「先生、今スカイツリーの押上にいます。先生のところまで、行きますよ」

あれ、と拍子抜けした。そういえば、21時と約束はしていたものの、会う場所を決めていなかった。押上からであれば新橋まで来てもらう方がありがたい。

「ありがとう。新橋です。浅草線で一本ですよ。改札で待っています」

私は少し胸をなでおろし、呼吸を整えてから改札に向かった。

 

「先生、お久しぶりです」

聞き覚えのある、歌うような柔らかい声に呼ばれて読んでいた本から顔を上げる。大きな眼鏡をかけ、二重のくっきりした教え子が前に立っていた。

「お久しぶりです!もうご飯は食べましたか?」

相変わらず彼の声と雰囲気は、辻井伸行のピアノのような柔い優しさと包容力、それでいて芯の強い打たれ強さを連想させるなあ……。恩田陸の『蜜蜂と遠雷』を読んでから、ピアノ曲ばかり聞いていた私はふとそんなことを考えながら答えた。

「もう食べました。でも、先生まだですよね、もう一回食べてもいいですよ」

「今何歳でしたっけ?」

「もう20歳になりましたよ」

「じゃあ、お酒は飲みますか?」

「飲めますが、明日インターンシップですから……」

「そうだね、飲まない方がいいね。カフェに行きましょう」

 

岡山の大学に通っている彼は、今年大学3年生にあたる。秋入学なので、就職活動はまだ先なのだそうだ。今回は明日の午後に控える1dayインターンに参加するついでに2日前から東京入りし、観光していたという。

「スカイツリーはどうでした?」

「すごいですねー。とても楽しかったです!」

「昨日はどこへ行きましたか?」

「お台場へ行きました。中国語がたくさん聞こえて、驚きました」

「ああ、特に平日の観光地はそうですね。電車でも、中国語を聞くことが増えました。最近は時々ベトナム語も聞こえますよ」

 

もはや敬語を使う必要もなく、容易な言葉で文法を押さえて話す必要もない。早口過ぎず、相手のリズムを待ってさえあげれば、いつもと同じような話し言葉で通じることぐらい2人ともわかってはいた。けれど、どこかで2人の間では丁寧な日本語でのやり取りが習慣づいており、またこの会話感が懐かしくもあった。

そういえば、先生と呼ばれるのはいつぶりだろうか。振り返ってみると一昨年の夏に平和記念日の広島へ行ったときに、同じく岡山の大学へ通う別の教え子とバッタリ出会ったとき以来だった。

 

「どれぐらいぶりでしたっけ?」

「一昨年の2月頃、東京に遊びに来た時ぶりかなあ……」

「そっか、ちょうど2年ぶりなんだ。あの時は夜ごはん焼肉に行ったね」

驚くほどあっという間だ。光陰矢の如しとは言うけれど、それすら通り越して浦島太郎の気分である。そういえば、彼も心なしか今までの幼い雰囲気よりもおっとりして落ち着いた雰囲気が強くなったように感じられた。

「じゃあ、アトランティックで授業をしていたのは3年も前ですね」

「早いですね」

彼も少し考え込んでから、懐かしむように答えた。その響きはとても優しく、もう一度この子たちの授業をベトナムで持ちたいと思わせるに十分すぎた。

 

 

3年前、私は大学4年を休学し6月からの半年間をベトナムで過ごした。その大半を北部のハノイで過ごし、合計して1カ月半程度は北部から中部の各地方を転々とした。アイセックの海外インターンシップを使っての渡越だった。インターンシップの内容は日本語教師だった。

アトランティックはその時私が教えていた現地の留学エージェントだ。このエージェントを使って日本へ留学する学生は、留学前の3カ月間無料で日本語の授業を受けられる。私はその授業を取り持つ日本人教員として呼ばれた。

当時現地にいた教員は2人のベトナム人だったが、どちらも来日経験はなく、一人は大学生バイトだった。事業規模拡大に伴い教員の増員を視野に入れつつ、ネイティブの教員の授業を売りにして優秀な留学希望者を取り込みたいと考えていた会社にとって、アイセックのインターン生はいいトライアルだった。英語が話せ、日本語はネイティブであり、国際文化交流への抵抗が少ない。彼らにとって唯一といっていいインターン生のマイナス点は、必ず契約期間後帰国し、十中八九ここで働く以外のキャリアを歩むということのみだった。

留学前の学生たちは月曜から土曜の週6日間、毎日3時間近い授業を受けた。私は日に3つのクラスを持った。一度でも授業を持ったことある学生の数は100を超え、そのほとんどが今は日本で学んでいる。

 

彼はそのとき教えていた学生の一人だ。日本語学校ではなく留学生を受け入れている大学に直接入学できるアトランティックでも花形クラスの学生で、そのクラスの中でも最も熱心で成長の速い学生だった。どちらかというと照れ屋なのだが、反面、率先してみんなの前で発表したり、休み時間ごとに人懐っこい目をして質問や談笑をしに教員の元へやってくる、そんな子だった。最初は文字通り「あいうえお」からのスタートだったが、3カ月後日本に発つときには難しい単語だけ英語を使えば基本は日本語で意思疎通が取れるほどに上達していった。

 

最後の授業のときも、前回会ったときも、先生と呼ばなくていいと伝えたにも関わらず、彼は変わらずに私を「先生」と呼んできた。以前はその環境に戸惑ったが、今は「先生」と呼ばれるごとにハノイで過ごした日々に引き戻され、懐かしくも居心地がよかった。私の名前が日本語初心者にとって呼びにくいので、「先生」がニックネームのような面もある。

 

日本で2年間生活しながら勉強してきただけのことはある。彼は、かなり深い話も日本語でできるようになっていた。同程度の次元の話を、私は英語ではできない。自分の教え子だからこそ、彼らと話したり彼らのFacebook投稿を読んだりすると嬉しくなる一方で、自分の能力の低さが嫌になることもある。

 

頼んだコーヒーが来てから急に気が付く。

「そういえば、みんなにとっては日本のコーヒーは薄いですよね」

「そうですねぇ、ベトナムコーヒーとは違いますね」

ベトナムはコーヒー大国だ。街にはカフェが沢山ある。私自身、毎日のようにカフェに通ってベトナムコーヒーを飲んでいた。日本のドリップ式やサイフォン式とは異なる独特の入れ方をするベトナムコーヒーは、味が濃い。ミルク入りを頼むとコンデンスミルクが入るのだから、それだけでも味の濃さがうかがえる。

そんなことすら抜けていた自分に愕然とする。あんなに大好きで、しょっちゅう帰りたいと言っていたベトナムなのに、いつの間にこんなに遠い存在になったのだろう。

「でも、日本のコーヒーも好きですよ」

飾りのない彼の一言にほっとする。

「ベトナムのコーヒーは味で、日本のコーヒーは香りですよね」

「あ、それ、最近わかります」

 

色々話した。彼の勉強のこと。この2年間で観光した街。ベトナムへ最後に戻ったのはいつか。日本で働くのか、ベトナムで働くのか。一緒に留学した同じクラスの子たちは元気か。

 

「先生、そういえば僕部活に入りました」

まるで「これが伝えたかったんだ」とでも言うようにワントーン上がった声で報告してきた。

「何の部ですか?」

「マーチングです」

「楽しいですか?」

「でも、1カ月で辞めました」

「あらま、大変だった?」

「先輩が好きじゃない」

 

これはちょっと意外だった。柔和な彼は、合う合わないはあっても、人を嫌うことはなさそうに思えたからだ。大きな衝突は生まれそうにない。

「意外です。あまり、人の好き嫌いがあるイメージがありませんでした」

今度は彼が目を見開いて私をのぞき込んだ。

「でも先生、嫌いだったら、いつまでもするんじゃなくて、ちゃんと早く伝えたほうがお互いのためにいいでしょう?」

それが当然のことなのに、という思いと、それを認めてほしいという不安が入り混じっていた。

「それは、確かにそうですね。その通りです。だから、ちゃんと話せたのはすごいです。でもね、なんというか、私にはあなたが人を嫌いになったりすごく喧嘩したりするイメージがなかったんです。もちろん、あんまり仲良くないな、とか、ちょっと苦手だな、はあると思うんですが、『嫌い』と言ったことが意外でした」

それを聞いた彼は少しうつむいて考えてから、さっきまでの勢いとは打って変わって少し寂しそうに口を開いた。

「先生、ほんとはね」

そう話しかけて、一度口を閉じる。まだ、話すべきか悩んでいるようだった。

「先輩とか、後輩とか、難しいですね。でも、そうですね、本当はね、嫌いではないんです。嫌いだから辞めたんではないんです」

ゆっくり話す。今まであまり言葉にしてこなかったのか、あるいは自分に最初に日本語を教えていた私に伝えるべきか悩んでいるのか。私も、何も言わずに彼が言葉にできるのを待つ。

「部活に入ったときは、今よりまだまだ日本語ができませんでしたから、難しかったです。みんなの言っていることが、わからない。授業は大丈夫でも、部活は日本人も友達と一緒ですから、話すのが速い。わからないし、僕もうまく話せない。だから、マーチングも全然うまくなりませんでした。僕がみんなに迷惑をかけているなと思って、マーチングは本当はもう少しやりたかったけど、でも部活は辞めました。」

 

どう答えていいかわからなくなった。留学生が多い大学でも、これか。なぜか申し訳ないと思った。そんな思いをさせてしまい、情けなかった。

ところが、すぐになぜか笑いが込み上げてきた。

「あのね、先輩とか後輩とか難しいって、日本人の文化や考え方がわかりにくいっていうけれど、そんなことないですよ。その『自分が迷惑かけているから』という理由でみんなのために辞めてしまうのは、もったいないけれど、すごく日本人の感覚に近いと思います」

うつむき気味だった彼がニヤッと笑って、反応した。

「よく、言われます。中身も、見た目も」

 

その後も話が途切れることはなかった。気が付けばもうすぐ23時だった。

「先生、僕は教育関係に関心があります」

就職について話題にしていたとき、真っすぐな眼差しで彼が告げてきた。教育関係、確かに似合うかもしれない。

 

「先生は、なぜ教師になりませんでしたか」

「えっ……」

言葉につまった。それは、これまでの会話とは明らかに違った。質問よりも詰問のような雰囲気があった。僕を教えてくれた先生なのに、なんで先生になってくれなかったの?と責められているような気がした。

教育関係を志す教え子を前にどう回答したらいいのだろう?なんとも意地が悪いなあ、と苦笑いする自分がいた。

 

日本語教師としてインターンシップに参加するときも、その後教員になるつもりはなかった。リタイア後の日本語教師はありかもしれない。でも、自分は教師一筋ではないな、とやはりインターンを通して感じた。

 

それでも、彼らを教えていたときは全力投球だった。我流だ。指導もトレーニングも受けていない。日本語はなんて難しいのだろうと思った。毎夜毎夜インターネットのヒントになるサイトとにらめっこし、自分が書いた文章を分解した。教科書に書き込むだけでは足りず、膨大な授業準備ノートができた。教材となる手作りプリントを毎晩刷った。自身が英語を勉強したときに取り込んだゲームを日本語に置き換えてみた。一定以上のレベルのクラスには週に一度交換日記を書いてもらい、丁寧に一人一人赤ペンを入れてコメントを返した。

 

だから、「教えていたときも、始めから別に教師になる気はなかった」とは言いたくなかった。少なくともあの瞬間は、経験も免許もなく技術が追いつくかは確証ないけれど、意地を持ってプロであろうとしていた。彼らのキャリアと人生の一部を担う、教師であろうとしていた。

 

 

「日本語教師に、ですか?」

「それもそうですが、日本語教師でなくても、他の教科でも」

「……教えるって、私には難しかったんです……」

 

日本語は難しかった。まだ、初歩の日本語であれば文法構造も簡単で、ゲームなども取り込みやすい。難しいなりに、彼らのことは何とか教えられた。けれど同時に、これ以上の難易度は満足に教えられず受講者に疑問を残すことになると感じた。授業準備をしながら毎回怖かった。

 

「だけど、その緊張感はみんなが初めての学生だったから、ということにも気が付きました」

 

彼らがついに留学の日を迎えベトナムを去った後、私はまた新たなクラスを受け持った。そのクラスは都内にある日本語学校への留学予定のクラスだった。しかし、軽い燃え尽き症候群となった私は、当初のような集中力を保てず、そのことに申し訳なさも感じながら、ある種の虚無感に襲われていた。

 

「みんなはどんどん成長していくんです。多様な言葉、多様な表現の世界へ飛び出して行って、どんどん、どんどん。卒業して日本へ行ったら、さらに成長するんです。だけど、私は取り残されて、また『わたしは○○です』『おなまえは?』に戻るんです。なんだか、一人だけずっとぐるぐる円形の迷路を歩いているみたいに。それが、耐えられないくらいに寂しかったんです」

 

さらに、クラスによって学生の期待値があまりに違い、困惑した。

 

「この言い方は好きではないのですが、クラスによってレベルの差が大きかったんです。みんなのクラスは英語もできて、理解も早くて、やる気もありました。でも、あまりレベルが高くないクラスでは、日本語が嫌いなわけでも私が嫌いなわけでもないのだけど、勉強したくない子たちも多くいました。勉強はしたくないのだけど、自分ができないと突き付けられるのは嫌って、だからカンニングも簡単にしてしまうんです」

「ああ、いますね。とってもルーズでわからないっていうくせに勉強しない人たち」

それまでじっと聞いていた彼が、労うかのように息を漏らした。むしろ、岡山の大学に留学したクラスの子たちのように熱心な学生のほうが実は少ないのかもしれない。彼には勉強嫌いの学生の様子がすぐに想像できたようだった。

 

ベトナムで教えていた環境は留学エージェントだった上、偏差値分けされたクラスだったため、極端に勉強意欲の低い子と勉強意欲の高い子とが混在する率は低かった。しかし、日本の学校で教えるとなるとそうもいかない。それは、日本語学校にしても、一般の学校などの教員にしてもそうだ。そういった学生が混じった環境をハンドリングし、勉強嫌いな子たちもフォローしながら意欲高い子たちを満足させられる自信を失う程度には十分な半年だった。

 

他にも教員にならなかった理由はあげだしたらキリがない。だが同時に、彼に伝えたいのはそういう「言い訳」ではなくなってきた。最初は質問に答えるために考えていただけなのに、言葉にするうちに伝えたいことが生まれてくるから不思議だ。

 

「だけど、私はベトナムで先生でした。その後教師は続けていませんが、あのときアトランティックのインターンに参加したのは間違えじゃなかったと思っています。みんなに会えて、みんなを教えられたことは、宝物です。こうやって、今も会いに来てくれるのがどれほど貴重で尊いことか」

 

ひたすら真剣な表情で聞いていた彼が、少し居住まい正して頭を下げた。

「本当に、ありがとうございました」

 

それは、こちらの言葉だ。私みたいな小娘に教えさせてくれて、その上今でも先生と慕いながら「ありがとう」と言ってくれて、本当にありがとう。けれど、それは言葉にならず、ただにっこり笑うことしかできなかった。

 

 

そういえば、今は「会社に行くのが面倒くさいなあ、もう行きたくないなあ。いつまで私は朝家から出ていけるのか、どのタイミングで崩れて引きこもりになってしまうのか」と思う日々が長い。

けれど、ベトナムで教えていた半年は、仕事に「行きたくない」とは一度も思わなかった。朝もう少し寝たいな、とか、日本に帰りたいなと思うことはあっても、仕事から逃れたいと思うことはなかった。目の前に向き合うべき学生がいたからかもしれない。毎日複数人の学生と会話でき、つながりを感じられていたのかもしれない。あるいは、実は教えるということに思っているより向いているのかもしれない。

 

これは、今後の自分のためにそろそろもう一回振り返った方がいいな。そんなことを考えながら、とりあえず今日は帰ってこの幸福感を抱いて寝ようと、と思った。

 

 帰りの足取りはここ数カ月では想像もつかないくらい軽やかだった。仕事に、人間関係に、忙しなさに締め付けられていた神経が、ひたすら我慢していた心が、急にふっと緩んで春の陽だまりに包まれたように暖かかった。

 

そういえば、別れ際に撮った写真を彼に送らなければ。そう思いだし、LINEを開ける。その写真には、ここ数カ月で見た記憶がないほどの笑顔が写っていた。

 

※本文中の「今日」は「2月7日(火)」です