ことばひとひら ~つーさんの妄想日和~

流されながら、向き合いながら、感じたモノを一片のコトバに

生きたいのは「天職は廣瀬翼」と言える人生

 祖父の容態悪化、近づく天命

祖父の容態が悪化。重症感染症と思われる。

 

そう父から連絡を受けたのは、ゴールデンウィーク明けの5月8日。前日まで大阪に帰省し、両親とも今後について話していたところだった。

そのゴールデンウィーク中にも、一度急な下血の連絡が入り、父は富山県高岡市の祖父の元へ急遽車を走らせ戻っていた。一晩で安定し、大阪に戻ってきたのが5月6日。たった2日での再急変だった。

申し訳程度に送られてきた「現在、意識レベル、血圧は戻っている」というメッセージ。それはつまり、意識不明の重症で血圧も大幅に下がっていた時期がある、ということでもある。

 

もう、ダメかもしれない。そろそろ、お迎えが来ているのかな。漠然と感じたことを、両親はより強く感じているようで、「心の準備をしなさい」「何かあったとき周囲へできるだけ迷惑がかからないように準備しておいて」「礼服としてブラックスーツをクリーニングに出しておくように」と淡々と伝えられた。

 

「だって、ついこの前会った時には、歩けこそしなかったものの、元気に話してご飯を一緒に食べたのに?」そう思って振り返ってみると、最後に祖父に会ったのは年末年始。もう、それは4カ月も前の事。今の祖父の体には、長すぎるぐらいの期間だ。私はなんと何も考えずに、飛ぶように時間を駆け抜けてきたのだろう。なんと時間を体感していなかったのだろう。怖くなった。

 

「そう言えるのは、見ていないからだ」という一言

年末年始に会ってからの4カ月の間に、祖父は総合病院に移り、いよいよ寝たきりで車いすで移動することもなくなっていた。口から物を食べることが出来ず、バイパス手術をするかどうか医者との議論もあったそうだ。「あったそうだ」というのは、ゴールデンウィークに帰省するまでその一切を父が背負い、東京にいる私や妹には伝えられていなかったから、いつからそうなのか私は知らない。

 

「なぜ、それを伝えてくれなかったのか?」という両親への不信感。知っていれば、もっと早くに会いに行ったし、父の負担も減らせたかもしれないのに、という悔しさ。初めて近親者の死がちらつく状況への不安感。最初に入院してから早5年、長く続いた方だしそろそろ時期だろうと思う冷静な自分。

 

「今からバイパス手術をしたって、そもそも体力がもつかもわからない。手術が成功して食べられるようになる可能性だって、低くはないけど高くもない。それ以上に、手術自体は成功しても、それがもとで感染症になる可能性だってある。お金だって、どこから出すの?ダメかもって言われて、要介護になってから、長いじゃない。もう、自然に逆らう必要も、ないでしょう」

 

帰省中、そう話した私に、父は寂しげな笑顔で「そう言えるのは、翼が見ていないからだよ」と一言だけ返した。とても疲れたその声は、何も答えられなくなってしまう、ほとんど聞いたことがない父の弱音だった。

 

私は祖父に、何を思う

その一言に私は「お前は、血も涙もない。感情を無視して合理的にそう言えるのは、寄り添っていないからだ」とすら言われたような気がして、それは考えすぎだとどこかで思いながらも、奥歯を噛んだ。

 

そんなことはないはずだ。私だって、嫌だなと思ったり他に行きたいところがあったり、それでも限られた長期休暇を使って毎年年末年始には祖父母の元へ行っている。元気だった祖父も知っている。こんなに簡単に老いるのかと、見ている。見ているから、もう見たくないとも思ったり、だけど、私の読書好きや海外への関心、カメラ好きなのはまぎれもなく祖父の影響で、祖父は私の一部でもあると思っている。

 

様々な思いが乱れて、だけど人が老いていきいつかは死ぬのは当然で。この数年で見ていると、どう考えても祖父は既に衰退の段階に入っている。それを、自然に逆らってまで生かそうとするのは、それこそ残される者のエゴであり残酷ではないか。

けれど、この4か月私はほとんど状況をこちらから確認することもなく、のうのうと暮らしてきたのも事実。その間、父は毎月高岡へ帰っていた。祖母はつきっきりだ。本当に気にしていれば連絡もしただろうし、その気になれば顔を出すこともできた。そうしなかったのは、どこかで老いていく祖父を見るのが怖いと思っている自分がいたからでもある。

 

大好きな仲間の大舞台と、見舞いで揺れる選択

ちゃんと一度、会いに行かなければ。会いに行くとなれば、一週間のうちに2度も状況が悪化したのだから、可能な限り早く行く方がいい。

けれど、その週末は参加しているコミュニティ「ワークル」の半期発表会と被っていた。

 

「仕事と家以外の第3の場所として、組織を越えて、やりたいことでつながる」そんなサービスとコミュニティを運営しているワークル。運営者もみんな同世代の友人で、私自身が今一番ほっとする場でもある。この半期発表会は、そんな仲間たちがこれからの働き方と生き方を考えたり、半年の歩みを発表したりする一大イベントだった。

 

数か月前から楽しみにしていた。友人が前で登壇するのも聞きたい。そんな友人の雄姿を写真に撮りたい。半年前は仕事の関係で行けなかったので、今度こそと考えていたのに。

 

正直、ものすごく悩んだ。

 

祖父に会いに行くのは、一週間遅らせたっていい。最悪、仕事を休んだっていい。でも、半期発表会は日にちをずらせない。

 

けれど、祖父はこの一週間で2度状態が悪化している。そんな祖父にとって一週間はきっと長く、一週間遅らせたから最後に会うことができなかった、という可能性だってあるかもしれない。

 

私にとって、今大事なのは何なのだろう?

 

祖父とは関係なく私の生活はあって、私の居場所はあって、今の私の舞台は東京で語れる仲間たちで。

 

だけど血縁は切っても切れない関係で、祖父の孫は私と妹の2人しかいなくて、初孫は私しかいなくて。私にとっても祖父は祖父しかいなくて。

 

「私」はいったい何者だ?誰のための者だ?私が顔を向き合わせるべきは何なんだ?

 

混沌とした感情の中で、結論を出すに至ったキッカケは「天職は廣瀬翼」という言葉だった。

 

モヤモヤから生まれた「天職は廣瀬翼」というフレーズ

「転職」だとか「天職に出会おう」という言葉が周囲にあふれるようになってきて、どこかで違和感を覚えていた私。

 

”天職”は、探せばあるのか?用意された椅子がある物なのか?あるいは、”職業”でなければならないのか?肩書が天職なのか?

“天職”は、働かなければいけないのか?「働く」と「生活」を分けて考えるのか?自分のアイデンティティを、仕事に持たなければならないのか?

私はそれよりも、もっと自由に生きたい。仕事や肩書と関係なしに、呼吸するように生きたい。お腹の底から、感じるように物事を選択したい。それが、生活につながっているような人であれたら、どんなに幸せだろう。

 

そう思ってフッと降ってきた言葉が、「天職は廣瀬翼と言える人生」というフレーズだ。この言葉に立ち返ったとき、自分がどこに行くべきなのか、霧が晴れるように明白に見えた。


ありたい私のために、大切なものを言い訳には使えない

活動的で友人とのつながりを重要視する。足を運び、キャリアや志、未来について語る。誘われたら断らない私。それは、まぎれもなく今の私のコアに近いものだけれども、「ある」ものではなく「作って」きたものだ。そうあらねばと、思い込んできたものだ。

 

気がかりがある今、腹の底からそちらを選択できない。迷いがある時点で「ある」ものではないのだと気が付いた。

 

それどころではない。本当は、祖父に会うのが怖い自分がいた。命や死と向き合うことに、もう十分だと、もう嫌だと恐れている自分がいた。本当に、本当に活動的で友人とのつながりを重視し、志持ったものを愛するならば、それを逃げる理由にしてはいけない。そう、強くこみ上げてきた。

 

だから私は、みんなが半期発表会の準備に集まる日、一人北陸新幹線で富山の高岡へ向かった。そして、この祖父の見舞いを通して「天職は廣瀬翼」という考えはより強固なものとなる。

 

肩書もなく、そこにいる祖父。それを愛おしく見つめる祖母

事前に連絡を入れたところ、私に合わせて父も高岡に戻っており、駅まで迎えに来てくれていた。「ついこの間も来たところで疲れるからいいよ」と口では言っていたものの、自分の運転に祖母は乗せたくないし、一人で会うほどの勇気はまだなかったのでとても助かった。

 

祖父は、近隣で一番大きな病院の一室に入っていた。カーテンを開けてのぞくと、目を覚ましていた。

 

この4カ月で驚くほどやせ細っていた。腕もお腹も骨と皮で、その体は今までよりも一回りも二回りも縮んだように感じ、人間はこんなにも頭が大きいのかと思った。血管も弱くなっているので内出血しており、腕は紫色だ。顎の筋力も落ち、常に口を開けているうえ、口から飲食できていないため舌まで乾燥し、動かすのが見た目に痛そうだった。

 

祖母が来た、父が来た。そのことに気が付いた祖父は何やら話そうとしていたが、滑舌の悪さと途切れ途切れの言葉に、最初は全く何を言っているのかが分からなかった。

不思議なもので、しばらく一緒にいると、それでもだいぶコミュニケーションが取れるようになる。小さな子供を相手にしているときや、初級者に日本語を教えているときの感覚に近かった。


どうも祖父は父が来たことを喜び、一緒に外に行きたくて仕方ないらしい。自分の健康状態までは理解できていないから、食べられると思っていて、外に出るために点滴をはずせと訴えていた。

 

そんな祖父を祖母は嬉しそうに見つめて、笑っていた。

 

「このあいだ病院に呼ばれたときは、意識も無くてただ口を大きく開けていただけやったのに、外行きたい言うぐらい元気になって」

看護師さんの巡回で、「安定してますね」と言われたときも、私が今まで見たことのないような笑顔で「ええ、ええ、そうやろ、そうやろ」と嬉しそうに話す。

一方で、祖父の寝顔を見ながら「こん人おらんなったら、よーせん。わしはどーしたらええか」と涙目になりながら呟いていた。

 

ここにいる祖父は、もう寝たきりだ。何をするのも看護師さんのお世話になり、腕や脚から管を通して栄養を取ることで命をつないでいる。

昔のように本の話もできなければ、一緒に食べることもできない。寝ては記憶がリセットされ、時には亡くなった祖父のお父さんを見たり。


なのに、祖母はこんなにも愛おしそうに祖父を見つめ、この状態の祖父でも「いなくなったらどうしよう」と言うのだ。

 

そこには、ただ「祖父」がいるだけだった。元市役所公務員だとか、留学生の身元保証人だとか、そういった肩書は関係ない。看護師さんも、祖母も、父も、見て話しているのはただの「祖父」だ。ただの「祖父」だけを見て、話しかけていた。

 

あぁ、老いていくと、積み上げてきたものも実績も肩書も待たなくなって、紡いできた関係性だけが残り、ただの「自分」になるのか。鮮明に、そう感じた。



生まれるときも死ぬときも、人に肩書はない

そうだ、私たちは「おぎゃあ」と生まれた瞬間に職業はなく、肩書もない。何も着ないでで身一つ、両親の愛情と眼差しの元に生まれてくる。

 

死ぬときも、職業も肩書もない。

 

私はただ「廣瀬翼」として生まれ、「廣瀬翼」として生き、「廣瀬翼」として死ぬのだ。それが私の宿命で、役目で、勤めだ。

 

だから、何をやるかではなく、呼吸をするように生きて、お腹の中から感じたい。悪いことはしない。いいことはいいっていう。全身で、感じる。

 

私が生きたいのは「天職は廣瀬翼」と言える人生だ。